海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

8月26日 神さまの子育て

おはようございます。
愛し、愛されるために今日があります。


☆今日の御言葉 ローマ8章15
『あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』


1859年、日本に医療宣教師として来日したジェームス・カーティス・ヘボンという方がいます。ヘボン式ローマ字の考案者で、横浜で近代医学の基礎を築いたとも言われています。日本が鎖国を解き、外国人の渡航が可能になったことを知り、医療を通して、神さまの愛を伝えたいと来日しました。そして医療、教育、あらゆる分野でたくさんの功績を残されました。神さまの愛によって多くの人々の人生に良い影響を与えました。


海を超えて、異国の地に、神さまの愛を伝えるためにその生涯をささげた姿に心を打たれました。その生涯には、いつでも「アッバ、父よ」と祈る姿があったようです。この祈りは、私たちの人生を前向きにさせて、身を委ねるようにして、力強く進む歩みとさせてくれます。


「アッバ」という言葉は、アラム語で「お父ちゃん」という意味です。小さな子どもが大きな愛をもってお父さんの腕の中に包まれているように、神さまに祈ることができるのです。安心して、素直に生きる今日の日なのです。


私たちは、父なる神さまの懐で豊かに育まれています。
その実感は、祈りの中で体験できます。


祈りは静まりから始まります。
静まりの心は、ただ今を見つめる時に与えられます。神さまは私たちの生涯のすべての見つめてくださっています。私たちは過去を見て、嘆き、憂いてしまうことがあっても、「大丈夫、わたしはあなたの人生をつくりかえることができる」と語られます。未来の心配を見てしまう時にも、「すべてを委ねなさい。わたしの計画はあなたに将来と希望を与えるものである。」と語られるのです。今、あるのは神さまの懐にただ抱かれている私の姿だけなのです。


心が静まるとと神さまが沈黙します
そして、私たちは父なる神さまの懐で祈ります。私の心が静まった時に、神さまが沈黙します。私たちはすべての思いを語りかけます。小さな子どもがお父さんに何でも言うように、祈ります。喜びも恐れも、悲しみも感謝も心にあることを神さまの大きな手に一つひとつを委ねるようにして祈ります。神さまは、ずっと沈黙したままです。悪い思いも、背きもすべて、見ておられます。そして、父なる神さまは、私の憂いをともに憂いてくださるのです。私の痛みを共に苦しむのです。わたしが悲しみの涙を流すことがあれば、父なる神さまは、ともに涙を流されるのです。


私の心と神さまの心が一つに
不思議と思えることが起こります。父なる神さまの心と、私の心が一つにされていくのです。父と子が一つの思いで結ばれているように、家族の本当の愛の姿が現されるようにして、私の痛みが神さまの痛みとなり、神さまの思いが、私の思いとなり、もはや別々の存在ではないと思えるほどの、愛の豊かさを経験することになるのです。


父なる神さまの懐には恐れがありません。神の子であることの平和、愛、喜びが包んでいるのです。


いつでも「アッバ、父よ」と呼び続ける日でありますように。
 

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8月25日 マイナスがプラスになる力

おはようございます。
苦しみは半分に分け合い、喜びは2倍になりますように。


☆今日の御言葉 マタイによる福音書27章46節
『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』


エスさまが十字架の上で叫ばれた言葉があります。十字架の7つの言葉として、知られています。①「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)、②「あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)、③「女よ、見なさい。あなたの子です」(ヨハネ19:26)、④「なぜ私をお見捨てなったのですか。」(マルコ15:34)、⑤「渇く」(ヨハネ19:28)、⑥「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)、⑦「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)


このイエスさまの十字架の上での言葉は、人間の憂いや悩み、孤独や痛みに光をあてるものとなりました。マイナスと思えることをたくさん抱えてしまうことがありますが、イエスさまの十字架の上での言葉に触れる時に、私たちの人生にプラスの作用が働くようになります。私たちは、自分の力で人生をより良く変化させることができない時がありますが、イエスさまの言葉には力があり、私たちの心と魂はみことばによってより良い方向へと導かれていくのです。


今日は、イエスさまの十字架の言葉を心に刻みましょう。


1、赦しがあります・・十字架に赦しがあります。憎しみや怒り、嘲りや争いが十字架の下にはありました。人々の心は荒れ果てていました。イエスさまは今も「彼らを赦してください。何をしているのか分からないのです。」と、涙のとりなしの祈りをささげているのです。


2、救われます・・どんな失敗も、どんな罪も、裁きという結果で終わることはありません。人生を回復させる道、癒される道、救われる道は私たちの近くにあります。今日、心を開きイエスさまの救いを受け取りましょう。


3、神の家族とされます・・人と人とのつながりは、血縁関係を超えて、信仰の恵みによって、一つにされることがあります。共に祈り、共に歩み、神さまの愛によって結ばれる神の家族の家(教会)に招かれています。


4、見捨てられません・・イエスさまは、私たちの心を深く知ってくださっています。「なぜ私をお見捨てなったのですか」というイエスさまの言葉は、この地上での最後の言葉となりました。寂しさ、孤独を終わらせて下さったのです。神さまの愛と守りが降り注いでいる私たちの今日の1日です。


5、もう渇くことはありません・・十字架は復活に変わりました。苦しみは神さまをたたえる賛美に変わりました。もう、私たちは絶望の縁で悩み、渇くことはないのです。神さまの助けはいつでも、みことばの満たしはどんな時にも与えられるのです。


6、希望の光は輝きます・・救いは実現しました。誰でも、神さまを呼び求めるものは救われます。外側の私は衰えることがあっても、内側はいつでも日々新しくされるのです。絶望をもたらす闇は過ぎ去り、復活の光に照らされて、神さまの愛が私たちの人生の上に豊かに輝いているのです。


7、委ねます・・静まり、そして確実に一歩一歩、イエスさまの愛の中で過ごします。嵐があるでしょうか。問題が山積しているでしょうか。私の手は小さくて、その重荷のすべてを担うことができなくても、イエスさまの大きな手が差し伸べられています。「委ねなさい」と語られるのです。


今日も、神さまはマイナスと思えることをプラスに変えてくだることを共にお祈りしています。
 

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8月24日 神さまの電話番号

おはようございます。
1日の終わりには「神さま、ありがとう」と言える日でありますように。


☆今日の御言葉 イザヤ書49章3−4節
『主は私に言われた。「あなたの僕、イスラエル。私はあなたの中で私の栄光を現す。」しかし、私は言った。「私はいたずらに労苦し、意味もなく、空しく力を使い果たしました。それでも、私の公正は主と共にあり、私の報酬は私の神と共にあります。』


今は、便利な時代になりました。教会でもZoomというアプリケーションを用いて、場所や状況は違っていても互いにつながることができます。人と人がつながる通信技術は変化していますが、神さまと私たちがより豊かに、いつでもつながり、電話をするようにコミュニケーションをとることができたらどうでしょうか。


旧約聖書の時代、神さまと直接つながり、お互い話し合い、思いを分かち合った人がいました。預言者イザヤという人です。イザヤ書をみると、神さまとイザヤとの話し合いのときが記されています。自分がどう生きるか、何をするのか、大切なことは何かを、見出していくのです。


電話やZoomではありませんが、直接神さまとその場所で繋がることが可能だったのです。そしてそれは、今もインターネットではなくて、聖書のみことばを通して、豊かに神さまとつながることができるのです。


さあ、一緒に、神さまに電話してみましょう。


電話番号は、「33−3」
「私を呼べ。私はあたなに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」(エレミヤ書33:3)
通話可能となりました。


神さまとの通話
何でも話して見ましょう・・イザヤは、神さまの預言者として使命をもっていましたが、不平のような気持ち、不満足な思いを抱えていました。神さまが「私の栄光を現す」(イザヤ49:3)と言っても、「私はいたずらに労苦に・・空しく力を使い果たしました・・」と語るのです。気持ちは萎えています。なぜなら、神さまの言葉を語り伝えても、あまりに過酷な現実の中に生きている人たちは、「主は私を見捨てられた。わが主はわたしを忘れた」(イザヤ49:11)とただ現実の苦しみだけを見ていたからです。何度言っても、世界が変わることも、状況が一変することもありませんでした。イザヤは消耗し、疲れていました。自分の労苦が空しいと思ったからです。


私たちは今日どうでしょうか。否定的な思い、疲れ切った心・・痛みを抱えることもあるかもしれません。すべてを包み込むように神さまはその心を知っていてくださっています。良い思いのときではなく、喜べない時こそ、神さまは私たちを待っていてくださっているのです。


希望は必ずあります。イザヤは、自分が何のために生まれたかを思い起こしました。「母の胎にいる時から、私をご自分の僕として形づくられた。」(イザヤ49:5)神さまの愛によって生かされている私たちです。無駄な人生はありません。報われない労苦はありません。神さまの深い計画の中で、一つひとつ神さまの大いなる業のために私たちを用いてくださっているのです。


イザヤは、再び力を取り戻しました。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを守り、あなたの民の契約とし、地を再興して、荒れ果てた相続地を継がせよう。」(イザヤ49:8)今は、バビロンの支配によって祖国は荒れ果てていても、人々が真実を見ることができなくても、神さまはその地を愛し、傷ついた人々を癒し、回復させてくださるのです。


神さまの励ましの言葉、力強い言葉を聞きました。私たちの心は、みことばの恵みで満たされているのです。


通話は終了しました。


これからもエレミヤ書33:3で大丈夫です。「わたしを呼べ・・」と神さまは言われるのです。


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8月23日 弱さを誇れる強い人

おはようございます。
祈りが天に届けられていることを知る日でありますように。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第二 12章9節
『主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』


1980年代に活躍したチャールズ・スポルジョンという説教者がいます。多くの書物を著し、日本語にも多く訳されました。ある書物に記されているスポルジョンの言葉です。


「私は1日の厳しい仕事の後、馬車で我が家に向かっていた。疲れ切って、ひどく気が滅入っていたが、そのとき、稲光のように突然、聖句が浮かんできた。「わたしの恵みはあなたに十分である」。私は「まったくそのとおりです、主よ」と言って笑い出した。・・まるで喉がからからに渇いた小さな魚が、川の水を飲み干してしまうのではないかと心配し、それに対してテムズ川がこう言っているようなものだった。「好きなだけ飲むがいい、小さな魚よ、私の流れはあなたに十分なのだから。」


新約聖書の多くの手紙を記したパウロは、目の病気を抱えていたと言われています。不自由な生活がありました。この病気さえなければ、もっと元気に神さまに奉仕することができると思ったかもしれません。もっと健康であれば、多くの人たちに福音を伝える良い働きをすることができると思っていたでしょう。パウロは、自分に一つの棘(弱さ)が与えられていると告白しました。この棘(弱さ)が取り去られるように、なんどもお祈りしていました。でもこの祈りは聞かれなかったのです。


聞かれないお祈りがあります。それは、神さまが私たちの願いを無視しているのではありません。苦しみを見て、ただ天から眺めているのではありません。私たちにとっての弱さと思えること、取り去られたらどんなにか楽だろうかと思うこと、それはパウロと神さまをつなぐ恵みの絆となっていたのです。


痛みの中でこそ生まれる祈りがあり、悲しみの中でこそ強くなる信仰があります。ある課題の前で疲れ果ててしまうことがあるかもしれません。神さまは、苦しみの中にも私を祝福する道を用意してくださっています。立ち上がれない時にも慰めの出来事を通して、私を守っていてくださっています。


自分の力ではどうすることもできない問題の中にこそ、キリストの力が現されます。そして、心から「私は、神さまの恵みの中でずっと守られていた。神さまの力は弱さの中でこそ与えられ、私に与えられた恵みは十分であった!」と思えるのです。後悔はありません。痛みの出来事もずっと私たちの心を支配することはありません。神さまを讃えて生きる人生を用意してくださっているのです。

 

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8月22日 聖書から自己紹介すると

おはようございます。
心配を祈りに、恐れを信仰に変えてください。


☆今日の御言葉 ペトロの手紙第一 2章9節
『あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。』


毎年、この時期になると、地域の子どもたちと一緒にキャンプをしていました。今年は中止( ; ; )です。二泊三日、大自然の中で仲間と過ごすとても楽しいひとときです。その中で、一番最初に「自己紹介ゲーム」をします。紙を子どもたち一人ひとりに配り、名前は書かずに、自分の性格、好きなこと、得意なこと、食べ物や趣味を書いてもらいます。その紙を集めて、あとからその紙に書かれた項目を読み上げて、誰れが書いたかをあてることをしたこともあります。


私たちは、どのような存在でしょうか。それぞれの趣味、性格、好きなことは違いますが、聖書をみると、ある共通している私たちの性質があります。それは、私たち自身の存在の根底を支えているものです。この揺るがない神さまの愛の土台によって、私たち自身は個性的に実に豊かな存在として今日を生きているのです。


聖書から見れば、私はどのような存在なのでしょうか?自己紹介する時に使ってください・・。


・愛に守られている人ー選ばれた民

旧約聖書の時代、神さまはイスラエルの民に目を留められました。イスラエルの民は、傷つき、抑圧され、救いを求めていました。神さまの愛は、いつでも私たちの心に向けられています。悲しみを見逃すことをしません。切実な祈りを無駄にすることはありません。エジプトの苦しみの中にいた人々の叫ぶ祈りを聞いてくださっているのです。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」(出エジプト3:7)神さまにとっての「私の民」は、あなたの存在の全てです。


・誰かのためにとりなす人ー王の祭司
私たちは、とりなし祈る人です。神さまの大きな愛と、この世の痛みや苦しみの間には、隔てがあります。神さまの恵みを見ることができないほどにこの世の闇が覆い尽くしてしまうことがあります。祈りは、闇に光をあてます。希望を信じて、救いを信じて、祈る人を神さまは必要としているのです。


・宝のように大切にされている人ー聖なる国民
神さまは、私たちの存在を決して小さい者、空しい者と見ていません。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は、地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたはどの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに・・・」(申命記7:7−8)神さまにとって宝のような存在です。この愛の力は、私たちを前向きに、神さまの恵みによって自信をもって、すべてを委ねて生きることができます。その人生は、本当に大きな幸せにつながっています。


闇の中から驚くべき光の中へ招いてくださった神さまが私を照らしています。


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8月21日 拾い上げ祝福する

おはようございます。
試練の先の光はもう輝いています。


☆今日の御言葉 詩篇118編22−25節
『家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった。これは主の業、私たちの目には驚くべきこと。今日こそ、主が造られた日。これを喜び踊ろう。どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。』


私の父は大工をしていました。小さい頃、学校が夏休みなどに家を建てる現場に行って、廃材で遊んでいた記憶があります。捨てるような木材を集めて、木の家、木の車などを作っていました。イスラエルの家づくりには石が用いられていました。神さまは、家を建てる者の捨てた石を用いて、良いものとされるのです。


神さまを信じる思いは、あまり大切ではないと思うことがあるかもしれません。みことばは私の今の生活にどのような力になるだろうかと分からずに、横に投げ出してしまうこともあるかもしれません。しかし、この神さまの御心、愛、平安、救いこそ、私たちの人生を豊かに支える要石(キーストーン)なのです。


私たちの人生は良い時もあります。大変な出来事を乗り越えなくてはいけない時もあります。私たちを支えているものは、イエスさまの愛です。このイエスさまの愛が要石です。その人生には、苦労もありますが、神さまの大きな支えと力が豊かに現される恵みの生涯と呼ばれるのです。


神さまはどのように私たちの今日を守っていてくださっているのでしょうか。


・捨てた石を用いる
捨てた石は、ヘブライ語で「見下す、拒否する」という意味があります。人々がこの石はいらないと思ったもの、不必要に感じること、見下し、拒絶したものを神さまは、拾い上げ、尊いものとするのです。この世では逆風が吹いているかもしれません。神さまを信じることに何の価値があるだろうかと思うことがありかもしれません。神さまがいるのになぜこのようなことが起きるのだろうかと思う事もあります。イエスさまを十字架から復活へと高くあげた神さまは、私たちの絶望も、空しさもその手でつくりかえ、やがて神さまの恵みを感謝する出来事にしてくださるのです。


・今日こそ、主が造られた
大きな建物の設計図も、私たちに与えられた夢も、今日を喜んで生きる道に続いています。りっぱな建物は1日では完成しません。一本の釘を打つこと、一つの柱を据えること、木材を加工すること、地道なその日の作業がやがて完成へと導くのです。私たちの人生も今日1日です。明日のことまで心配しません。今日、神さまが造らられた人生を喜び、自分らしく精一杯歩むことだけです。その一歩一歩は、大きな夢につながっています。神さまが私たちを通して、人生を築いてくださるのです。自分の力が弱くても、神さまは力強く、神さまの栄光が現される生涯にしてくださるのです。


・救ってください
私たちには、人生のある地点で、祈りの課題が与えられます。祈りの課題は、自分の知恵や思いをもっても乗り越えることが難しいと感じるものです。その瞬間は、絶望や否定的な思いが心を支配します。大きな課題を前にする時に、闇の力は強く私たちに働きます。どんなに強い人でも平穏であることは難しいのです。祈りは、私たちと神さまを強く結びつけてくれます。恐れや暗闇もこの祈りの絆を引き裂くことはできません。私たちをあゆる問題や出来事から救ってくださる神さまが一緒にいてくださっています。


「救ってください!」と祈る時、神さまは動き出します。

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8月20日 いつまでも残る資産

おはようございます。
神さまの祝福が心や体で感じる日でありますように。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 13章13節
『それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。』


私たちは、人生の中でたくさんのことを経験し、そして手にしてきました。今も手の中にあるものもあれば、失われてしまったものもあります。たくさんの出来事を繰り返しながら、幸せの時、悲しみの時を乗り越えてきました。人生の最後まで何かをずっと握りしめて歩むことはできません。健康も私たちの生活の周りの状況も変化していくことがあると思います。それでも、最後まで手にすることができるものがあります。それは、今から後もずっと輝き続けるものです。


それが・・信仰と希望と愛です。


信仰と希望と愛の価値を十字架の形から思い巡らしてみます。
十字架の形「十」を、上に伸びる棒、下に伸びる、そして横の棒と三つに分けてみます。


上への棒ー信仰
私たちは、偉大なる存在、大いなる存在を求めています。科学者たちは、神さまという言葉を使わずSomething Greatと呼ぶこともあります。私たちを創造し、すべてを御手の中で守り、命をかけてまでも愛していてくださるお方がいます。決して一人ではありません。たとえ大きな問題を抱えることがあっても、私たちには信じる思いが与えられています。神さまは私の祈りを聞いてくださり、私の思いを超えた最善のことをいつでもしてくださると知っているのです。神さまを見上げましょう。上への信仰を抱くならば、私たちの人生は決して失望に終わることはないのです。


下への棒ー希望
上への信仰、神さまを信じる思いを抱く人は、この地に希望を祈り求めます。十字架には、下への棒があります。上と下はつながっています。連動しているのです。信仰を持つ人は、どのような絶望が押し寄せても、いつでも信じています。希望を待ち望みます。家族の上に、私たちの生活の上に、神さまは必ず希望を与えてくださると思えるのです。希望を信じる人の周りに、神さまの恵みの業が起こされます。私たちは上には信仰、地には希望を信じているのです。


横の棒ー愛
神さまの大きな愛の中で、わたしたちに信仰が与えられました。そして、私たちは希望を信じる人になりました。イエスさまの十字架は私たちの人生をつくり変えてくださいました。恐れは小さくなります。希望を抱く人は、愛をいつでも経験し、愛を分かち合い、歩いていくことができます。愛は祈りです。愛は諦めない心です。愛はすべての人が見捨て、見放しても、信じ続ける力です。たとえ死の床にあっても、周りの人を最後まで愛することはできるのです。


大きな祝福を手にしました。もう何も恐れる必要はありません。
信仰と希望と愛、この価値は最後まで永遠に残るのです。
 

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