海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

8月19日 誰か行ってくれますか?

おはようございます。
暑い日が続きます。体には栄養を、心には神さまの愛が満たされますように。


☆今日の御言葉 イザヤ書6章8節
『その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそう。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。』


以前、神奈川県大磯町にあるエリザベス・サンダーズホームという所を訪問したことがあります。澤田美喜さんというクリスチャンの方が創設した施設です。第二次世界大戦後に日本に駐留したアメリカ人の兵士と日本人女性との間に多くの混血児が生まれました。その子どもたちは父親も知らず、母親からも見捨てられるという現実がありました。ある日、澤田美喜さんが満員電車に乗っている時に、網棚から包み紙が落ちてきました。黒い肌の捨てられた赤ちゃんでした。動揺し、心が痛む現実の中で、神さまから「この子の母親になりなさい」と呼びかけられたように思ったようです。そして、大磯にエリザベス・サンダーズホームを設立し、多くの孤児たちを受け入れました。


それは、澤田美喜さんに与えられた神さまの「誰が私たちのために行ってくれるだろうか」という呼びかけでした。イエスさまの心は、痛みのある時に回復を、傷のある所に癒しを、暗闇の中にいる人に命の喜びを与えたいと思っています。神さまの使命のために、私たちのそれぞれの人生は与えられています。


その声はどのように私たちに聞こえてくるのでしょうか。


聖なる心の痛み
ある現実を見ながら、その人の痛みが私の痛みとなり、その暗闇と思える現実にどのように光をもたらすことができるだろうかと考えるようになります。改善したいと願うこと、傷から回復されていく姿を思い描くこと、もっと社会がよりよくなるために、何かできないだろうかと心に痛みが生じるのです。それは、神さまの使命が私たちに与えられている瞬間なのです。


みことばの語りかけ
私の心の願いと聖書のみことばが一つになることがあります。私たちは、ある時心に飢え渇きの思いが与えられるのです。「どうしたらいいだろうか」とか「この現実に何ができるだろうか」と何かを求めるようになります。その時に、不思議とみことばが私の心に解決を与えてくれるのです。道を示し、「そうだ、自分のできることでこれをしよう」と勇気が与えられるのです。みことばとの出会いが私たちの人生に新しい可能性を開きます。


希望と救いを伝える人とされる
イザヤ書の時代、人々はバビロンの圧政という現実の中で未来の希望を見ることはできませんでした。イザヤは、暗黒の中で悲しんでいる人、苦しんでいる人たちのところに、神さまのメッセージを伝えるために「誰を遣わそう」と呼びかける神さまの声を聞きました。暗闇の中でこそ、光が必要です。その神さまの光を受けて生きる人を通して、希望は語られるのです。今もこの時代、神さまの愛を伝える人が必要です。「ここに私がいます。私を今日、その場所に遣わしてください。」と祈りが与えられる時に、神さまの救いは広がっていくのです。


私たちの心にはみことばあります。私たちの手には希望があります。
今日、出会うすべての人に、神さまの祝福が豊かにあることを願っています。
 

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8月18日 私の変革(リニューアル)

おはようございます。
今を感謝することがあらゆる恐れから心を守ってくれます。


☆今日の御言葉 ローマの信徒への手紙8章2節
『キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』


聖書の中に出てくる「法則」という言葉は、英語では「lay(置く、整える)」という単語からきていて、神さまによって置かれたもの、整えられたものという意味があります。神さまが私たちの世界にある法則を示されました。人間が心豊かに、平安をもって日々歩むための法則です。これを知る時に、わたしたちは、多くのことを心配して、複雑に物事を考える必要がなくなります。ゆっくりと委ねて、神さまの愛の導きの豊かさの中に生きることができます。


私たちは、この世に生み出された時に、神さまの霊的な法則よりも、この世の法則が強く支配していました。しだいに、この世の法則だけが心を支配するようになり、その結果あらゆる不安が生じてしまいました。この世の法則はある時生きにくく、傷つき、不自由さを感じてしまいます。イエスさまは、私たちに近づき、ある法則を手の中におかれました。それが命の霊の法則です。私たちは新しい法則を手にしながら、自由にされ大胆に神さまを讃えて生きていくことができます。私自身が全く新しくされるのです。


私たちの人生はどのように変えられたのでしょうか。


罪と死の法則・・パウロは、自分の内に罪が住んでいることを告白しました。正しいこと、良いことを行いたいと思っても、実際にはそれを行うことのできない、自分ではどうすることもできないものを抱えていました。それは、自分自身のうちに住む罪であって、その罪はいつでも死の方へと、憎しみや裏切り、絶望や不安の方へと私たち自身を導こうとするのです。悩みが生まれ、愛が冷えていきます。この罪と死の法則が動いている時には人間は本当の意味で幸せになることができません。イエスさまは、その人生を変えるために、この地に来られました。


キリストの救い・・イエスさまは、私たちの罪深い肉と同じ姿となり、私の罪を背負い十字架に向かわれました。それは、私たちが救われるためです。罪は滅ぼされる必要があったのです。そして、イエスさまは、三日目に復活されました。罪に支配される人生を終わりにしてくださったのです。戦いは終わり、葛藤は終わりました。


命の霊の法則・・私たちの内に神さまの霊が宿っています。この世のはじめに、エデンの園には、命の木、善悪の知識の木がありました。人は、神さまを信じる命の木よりも、賢くなるために善悪の知識の木からその実を食べました。私たちは、命の霊の法則を知りました。自分の知恵で、自分の力で、人生を歩むことをしません。命の霊の法則があります。いつでもみことばを手にします。自分で悩まずに神さまの愛の御手にすべてを委ねます。その時、命の霊の法則が動き出し、私たちの人生を祝福してくださるのです。


神さまの愛が豊かに、そしてあたたかく私たちに宿っていることを思い巡らす日でありますように。
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8月17日 今でも成長期

おはようございます。
一週間が神さまの恵みで守られていますようにお祈りいたします。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙3章19節
『人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。』


人間の成長や成熟には、それぞれの段階があります。幼児期は、感情を思うままに表現する時期です。嫌なこと嬉しいことをそのまま表現します。感情の浮き沈みがあり、状況によって変化していきます。青年期は、学びや意欲関心が高まります。より自分自身に集中します。自分のあり方にこだわりを持ち、自己を確立していきます。成人期になると、自分と向き合い、責任を負うようになります。悟ること、見分けることができるようになります。


神さまと私たちとの関係も様々な段階を経験することがあります。人間の成長や成熟とは違う点は、ある時は幼児期に戻り、ある時は青年期のようなことを経験し、成人期の安定した気持ちにもあるのです。この感情の変化をたくさん繰り返しながら恵みによって育まれています。神さまは、私たちを豊かな愛で包み、平安な人に、愛の人に、信仰と喜びの人生を歩ませてくださるのです。天への階段は、らせん階段を上るように少しずつ、高い豊かな神さまにある平安の場所に導いてくださるのです。


今も私たちは神さまにあって成長しています。栄養をどんどん取り入れましょう。
そのために3つのことを思い巡らします。


1、恵みで満たされる
神さまが私たちに与えてくださるのはいつでも恵みです。恵みとは、無条件で与えられる愛であり、備えであり、守りです。この恵みの価値は、神さまに差し出すものが自分の中には何もないと気付いた時から、与えられるものの豊かさを知るようになります。明日のことは心配しません。神さまの恵みはいつでも尽きることがないからです。何を備え、どのように守り、神さまは今日の日を祝福してくださるでしょうか、朝から夜まで意識してみましょう。


2、賜物で生きる
私たちは、自分の能力で生きることがあります。自分の可能性は、自分の知恵や自分の経験から生じると思ってしまいます。ある程度の人生の事柄は、私たちの内から生じる力で乗り越えることができます。しかし、不思議なことに、自分の能力や、経験以上に、神さまがこの小さな私を通して、人生の中で行いたいと思う出来事、使命、祈り、働きのためには、上からいくらでも、私たちに与えられ、備えられる賜物があるのです。神さまがわたしを通して何かをしたいかと願う時に、すべての必要は必ず備えられていくのです。賜物で生きる人生は、神さまが良きもので満たしてくださるのです。


3、使命を全うする
人と比べる人生もでもなく、神さまが私たちに特別な人生を与え、今日を生かしてくださっています。どんなに小さなことでも、神さまは目を留めてくださっています。人が嫌がることも、報われない仕事をすることもあります。それでも、今日、イエスさまが「あなたにこれをしたほしいと」と願う心を大切に生きる時に、共にいてくださる神さまの助けを知るのです。


昨日よりも今日がより豊かな神さまの恵みで満たされますように。そして明日はもっと祝福されます。

 

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8月16日 私たちは恐れない

おはようございます。
静まりと安息の日でありますように。


☆今日の御言葉 詩篇46編
『神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍の助け。それゆえ私たちは恐れない。・・来て、主の業を仰ぎ見よ。主は驚くべきことをこの地に行われる。地の果てまで、戦いをやめさせ、弓を砕き、槍を折り、戦車を焼き払われる。「静まれ、私こそが神であると知れ。国々に崇められ、全地において崇められる。』


聖書のみことばは、ただ読むことだけでなく、何か美味しいものを食べるように味わうことができます。心の栄養となり、今日の力となります。ゆっくりと聖書を読みます。そして、心を自分に向けるよりも、大きな愛をもって、慈しみの眼差しをもって、私を見ていてくださる神さまを思い巡らします。神さまの存在をはっきりと理解できなくても大丈夫です。聖書の真実を理解できないことがあっても、それはとても大切なことになります。


みことばはどのように私たちの生活の中に生きる力を与えてくれるでしょうか。


1、苦難の時の助け
神さまの助けは、私たちが求める方法では与えられないことがあります。私たちは、問題の解決、祈りの答えを求めることがありますが、私たちと共にいてくださる神さまは、すぐに解決を与えるよりも共に苦しみ、共に悲しまれるのです。闇の中に共に立ち、罪の泥沼にも共に入ってきて救われるのです。良い時ではなく、苦難の中にこそ神さまが共にいてくださることを豊かに知る時に、私たちの恐れは小さくなります。苦難を経験する時、「さあ、ここから神さまが助けてくださる」と思えるのです。


2、驚くべきことを行う
神さまの時が必ずあります。その時は、私たちの時とは違うタイミングかもしれません。悪い方に、思わぬ方向に進み、問題はさらに深刻になっていると思うかもしれません。人間の力ではなく、知恵でもなく、それらのものがすべてのものでは解決できないと思った時にこそ、不思議な事柄が起こります。人間の方法でも、この世の方策でもなく、神さまの仕方で、問題が良き方向へと進んでいくことを知るのです。祈り求め、委ね続ける時に、神さまは、私たちの中に働いてくださるのです。


3、静まって、知る
大丈夫です。私たちは、思考や経験による知恵によって、様々な心配をつくりだし、思い煩いを生じさせています。それらは、現実とはまるで違う、霧のようなものです。影のようなものです。霧も影もそれがどんなに大きなものに感じて、恐れる必要はありません。現実は、神さまが大きな愛の中で、私たちを今守り、決して見捨てることも、見放すこともないという御手に支えられているのです。神さまの前で心を静めます。沈黙します。委ねます。安心します。その時に、本当の私の人生の使命が見えてくるのです。


私たちはもう恐れなくでいいのです。偉大な神さまの働きを見ることができるからです。

今日は、みことばの恵みの満たされる時でありますようにお祈りいたします。


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8月15日 失敗できる人生

おはようございます。
平和であることを祈ります。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 15章57節
『私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。』


1984年のロサンゼルスオリンピック大会で、初めての女子マラソンが行われました。1位、2位の選手たちが次々とゴールをしていきます。その中で、スイス代表のアンデルセンという選手は、極度の脱水症状になり、フラフラになりながら競技場のトラックに入ってきました。ゴールは目の前ですが、意識は定まらず、いつ倒れてもおかしくない状況です。それでも前を向き、ゴールしました。その姿に感銘を受けて、クリスチャンアーティストであり牧師でもある小坂忠先生が「勝利者」という曲を書きました。以前、この「勝利者」という曲を聴いてとても感動しました。


このような歌詞です。
「何が苦しめるのか 何が喜びを奪い去るのか /心の中にはいつでも 嵐のような戦いがある /勝利者はいつでも 苦しみ悩みながら /それでも前に向かう /君がつまずいた時 失望の波にもまれていた時 / 君は一人でいたんじゃない 君を支えていた誰かがいた / 勝利者はいつでも 傷つき悩みながら /それでも前に向かう 
どんな力も神の愛から 君を離すことなどできない /勝利者はいつでも 苦しみ悩みながら/ それでも前に向かう 勝利者はいつでも /傷つき悩みながら / それでも前に向かう」


アンデルセンは、メダルを取ることはできませんでした。それでも、一生懸命ゴールに向かう姿が本当の勝利者のように思ったのです。成功や幸せの定義は、人それぞれにありますが、1位や2位になること以上に、自分に与えられた人生のレースを走り、傷つき悩みながらも、前に向かって進む姿こそ、メダルを獲得する以上の価値があるのだと思います。イエスさまは、十字架につけられました。それは多くの人の目に敗北の姿のように思われていたでしょう。神さまは、その一番弱い死の姿の中に力強い神さまの御手が伸ばされて、勝利を与えてくださったのです。私たちもこの神さまにある勝利をともに味わいたいのです。


・負けることで勝つ世界がある
本当に豊かな力を手にするためには、自分自身が砕かれるような時を経験します。自分の思いでは道が閉ざされ、思いどおりにならないことに失望し、自分の価値や人生の意味を見失うことがあります。砕かれることを通して、挫折する経験をとおして、そこから神さまの恵みの豊かさを知ることできます。造りかえられ、新しくされ、神さまが生きて働き、すべてのことを守っていてくださるのです。


・敗北することで勝利する
神さまを信じることで、価値観が逆転することがあります。成果をあげること、勝ち上がること、賞賛と誉を手にすること以上に、神さまの愛の中で「私らしくある」ことがとても価値があるのです。弱さも感謝です。足りないと思うことの中に神さまの助けを感じることができます。すべてを喜び、歩む人生は富では買うことができないのです。


・死ぬことで生きる信仰がある
何かに執着をしたり、物事に固執することは、人生を生きにくくさせてしまいます。目に見える状況の幸せだけが一番の目標ではありません。握りしめているものを手放すときに私たちの手は空になります。何も握りしめていないことは不自由に思うかもしれませんが、そこに神さまを信じる思いを与えてくださるのです。信仰は輝き続けます。死の暗闇でも、その輝きは終わることがありません。いつでも手に信仰を、心に喜びを、生活に愛の満たしを与えてくださる神さまが共にいてくださるのです。


失敗も大丈夫。その人は、人生の新しい価値を見出す本当の勝利者です。
 

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8月14日 落胆防止法

おはようございます。
暑さで食欲が落ちる時も、希望のメッセージで心に栄養をどうぞ。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙3章12−13節
『キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。だから、私があなたがたのために受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの光栄なのです。』


ある書物で「想定外こそ想定内」という言葉が記されていました(福島第一バプテスト教会・佐藤彰牧師)。そこには、このように記されています。

 

「私たちの人生は、初めて訪れる場所に列車で行く旅のようなものです。目の前に現れる光景は、いつもハラハラドキドキの連続です。けれども、神様の目線から眺め下ろせば、山あり谷あり、踏切やトンネル、野原などの全体像が見渡せます。私たちは一寸先も見えないので、暗いトンネルの中を不安気に通るときもあるでしょう。美しい野山を、歌いながら風を切って進む気持ち良い日もあるでしょう。大切なことは、そのすべてが主の大きな御手の中にあり、主のまなざしが注がれているという事実です。何が起こっても起こらなくても、主のご計画を信じ、ゆだねつつ、大きな世界観を持って旅しましょう。・・人生の道のりは、往々にして私たちの想定外。けれども、それら想定外の出来事の背後に主が立っておられます。想定外こそ、信仰者の想定内。」


今、私たちは、想定外のことをたくさん経験していることがあります。想定外は、私たちにとって良くも悪くも、まだ経験したことがない新しい領域です。当然、恐れたり、不安になったりします。この想定外の道には、信仰の杖(支え)が必要です。もし、私たちが人生の道を自分の足だけではなくて、信仰の杖をもって歩いていくならば、その道には落胆してしまうようなことにも慌てず冷静に、恐れず静まりの心をもって、新しい現実を見ることができるようになります。


エフェソの信徒への手紙を書いたパウロは、牢獄の中にいました。まさに想定外のことを経験し、この手紙を受け取る人たちは失意の中にいました。苦しみという新しい領域に足を踏み入れ、どのようにこの現実を受け止めていいのか分からなかったのです。パウロは、苦しみを見て落胆しないように、と語りかけます。この苦しみの先には、まだ私たちが見たことがない祝福があることを伝えるのです。どのように今日それを実感できるでしょうか。


1、キリストの真実
本当に大切なことは目に見えないことがあります。すべて目に見えるもの、私たちが経験して理解していることが真実ではありません。まだ見せられていない信仰の宝があるのです。まだ経験していない神さまの恵みの領域があるのです。真実は、イエスさまの手の中に握られています。祈り求める一人一人にイエスさまは、手を開き、真実のみことばをそっと私たちの手にも握らせてくださるのです。


2、神さまに近づく
苦難と痛み、悲しみと失望と思える出来事は、事実の背後に、神さまの招きがあります。私たちは神さまに近づくことが、唯一の希望を見いだす方法なのです。喜びの中で神さまに出会うよりも、苦しみの中で神さまに出会うときに、信じることの深い平安を感じのです。神さまは大きな愛をもって私たちのすべてを包み込み、癒し、助け、慰め、新しい希望に満ちた人生へと再び送り出してくださるのです。


3、苦難を見て落胆しない
私たちは自分で人生の道を思い通りに選択することができませんが、神さまが与えてくださる希望はいつでも手にすることができます。その希望を手にして、喜びの道では神さまを賛美しましょう。悲しみの道では祈り、祈られることが慰めとなります。失望の道でも迷うことはありません。「ここが道だ」といつでもその先には、希望の道があることを示してくださっています。暑さの中でも、寒さの中でも、想定内にも想定外にも、神さまは、私たちと共にいて決して失望に陥れることはしないのです。


落胆しないでください。その道には、今までみたこともない恵みの風景を見ることになるのです。
暑い日ですね。ご健康が今日1日守られていますように、心からお祈りしています。
 

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8月13日 イエスさまと浜辺を歩く

おはようございます。
心配を神さまの手に委ねると信頼になります。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙5章1−2節
『神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。』


カナダに住むマーガレット・F・パワーズさんという方が書いた「Footprintsーあしあと」という有名な詩があります。このような内容です。


「ある晩、男が夢をみていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。そし­て空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺­めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもある­のだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだ­った。


すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくだ­さるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足­跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあな­たは私を見捨てられたのですか」神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残され­ていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」


私たちは今日も人生の道を歩いています。砂浜を歩くように、あしあとはいつも二組みあるのです。イエスさまのあしあとと私のあしあとです。そして大変なときに孤独を感じることがあるかもしれません。ひとりぼっちでこの苦しみを乗り越えなくていけないと思うかもしれませんが、その時こそ、イエスさまは歩くことが困難な私を背負っていてくださっているのです。ここに神さまと私たちとの関係の豊かさが描かれています。


神さまの愛に背負われて歩む祝福があります。


1、私たちは神さまに愛された子ども
慈愛に満ちた父なる神さまがおられます。いつも守られています。どんな時にも背負われています。嵐の中でもイエスさまは離れることはありません。水の中でも押し流されません。火のような試練の中でも焼かれず、失望に陥ることはありません。愛された子どもは、いつでもみことばによって満たされているのです。


2、私たちは神さまに倣う者
人生に目標があれば、たとえ迷うことがあっても、すぐに自分の道に戻ることができます。私たちは、失敗することがあります。後悔することもあります。その一つひとつを取り上げて、どこかに責任の追求をしても解決できることではありません。神さまは、いつでも私たちに道を示してくださっています。


3、愛のうちに歩む
いつでも神さまの愛の中にとどまります。たとえ暗闇に覆われることがあっても、自分の力ではどうすることもできないいう壁を目の前に見ていても、神さまの愛の中には、喜びがあり平安があります。祝福があり、わたしが愛されていることを豊かに知ることができるのです。


浜辺をイエスさまと一緒に歩きましょう。
愛されている神さまの子どもとして今日の日が喜びで満たされますように。
 

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