海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

5月25日 弱り、疲れている大切な人へ

おはようございます。
みことばはいつでも心に潤いを与えてくれます。


☆今日の御言葉 イザヤ書40章30ー31節
『若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく歩いても疲れることはない。』


鷲の再生というお話を聞いたことがあります。


鷲の寿命には二段階あり、最初の寿命は35年ほど、そこで半分の鷲は死んでしまうそうです。この時を乗り越えることのできた鷲は、70年ほど生きることができます。35年ほど経つと、くちばしと爪が弱くなります。自然界においては、獲物をとって生きていくしかないので、致命的な状況です。また、羽にも限界がきます。かつてのように飛ぶことが難しくなるのです。


生き残る鷲はあることをします。自分が住処としていた場所よりもはるかに高い山に登ります。そして、石にぶつけながら自分の爪を折ります。その次にくちばしで羽を抜きます。自分の古い爪、羽を取り除くことによって、新しい爪、羽が生えてきます。一種の生まれ変わりを経験するのです。


私たちの人生も、命の喜びを経験する二つの段階を経験します。


一つは、私たちが一所懸命に生きてきた人生の全てです。それは、貴重な人生でした。たくさん良い経験、たくさんの試練や大変な出来事を乗り越えた、私たち自身の大切な証です。今のわたしの根底にあるのは、この「わたしの人生」です。ある時は人生を振り返り、自分史を書くのも、本当に貴重なことですよね。


そして、ここから新しい段階を経験する人たちがいます。私たちの心は生まれてからずっとフル稼働してきました。私たちの意識や感情も休まることはありませんでした。内面の酷使はある時には肉体にも影響を与えることがあります。


弱り、何かに疲れてしまうことがあります。もう限界と思ってしまうことが増えてしまうこともあるでしょう。今まで負担なくできていたことが急に億劫になって、心が弱っていることを感じてしまうことがあります。今までよりも、感情が敏感になってしまって、人の振る舞いや言葉、世の中で起きている出来事につまずくことが多くなりました。


そこは、神さまの恵みを体験する人生の分岐点です。


弱くされ、何かを諦めたくなり、自暴自棄の方に歩みたくなります。でもその道は私たちの行くべき道ではありません。神さまから引き離す力はここで強く働き、私たちを命の喜びを失う場所へと導こうとしているのです。その暗闇の力を振り払います。


ここから再生、回復、癒し、そして、新しい恵みの生涯が始まるからです。


待ち望みます。痛みつつ、嘆きつつ、イエスさまの手をしっかりと掴みます。心配は何でしょうか。恐れはあるでしょうか。本当に疲れてしまっている出来事はどのようなことでしょうか。見つめることは辛く、思い起こすことはかえって、心の負担となります。


エスさまは私たちの手を握って「大丈夫!わたしは共にいる」と何度も語りかけてくださっています。イエスさまを待ち望む時、無理に自分の心を変えなくていいのです。降り注ぐ愛、包み込む愛、倒れそうなる私をしっかりと支える愛に守られているのです。心が再生していきます。新しい命が根を張り、芽を出します。


恐れでもなく、感情の動きでもなく、心の中から湧き上がる力を感じるまで、静まり、祈ります。ゆっくりと心の動きを観察し、みことばが心に溢れるまで待ちます。否定的な感情が出て来ても、それを見極め、心の扉を閉め、心を支配させることをしません。みことばからの言葉がわたしを今日生かす力だからです。


やがて、命の源泉から湧き水が流れ出るような平安に包まれます。愛も流れて来ます。花が綺麗に見え、鳥のさえずりが賛美に聞こえます。今日生かされていることは言葉では言い尽くせないほどの感謝です。


試練は人を霊的な人に整え、苦しみはその人を祈りの人に変え、自らを見つめることのできる人は、神さまの真実をも見つめる人になるのです。


新しい力は今日注がれます。鷲のように翼を広げて舞い上がります。
かつての私の姿ではありません。


聖霊の風が吹いています。強く吹いています。それを感じながら、自分の力ではなくて、私の一生懸命さではなくて、神さまの熱意に動かされて、舞い上がるのです。


走っても弱ることなく、歩いても疲れない人生・・力と愛は尽きることなく豊かに注がれているからです。毎日、毎瞬間、神さまの愛から離されることはありません。


※5月24日 海老名シオンの丘教会 主日礼拝
メッセージ「しなやかに生きる」マルコ3章20−30節
Youtube録画 お時間のあるときに・・。https://youtu.be/XLxS0OSNJZI
 

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5月24日 雲の中の人

おはようございます。
みことばの井戸から喜び泉は今日溢れます


☆今日の御言葉 出エジプト記24章15−16節
モーセが山に登ると、雲が山を覆った。主の栄光がシナイ山に宿り、雲は六日間山を覆った。七日目に主が雲の中からモーセに呼びかけられた。』


わたしたちの1週間はどのようなスケジュールですか?ある時は、忙しく、大変で、追い立てられるように何に取り組むことがあるかもしれません。ある時は、自分の至福の時間をゆっくりと過ごすこともあるでしょう。


わたしたちは、この「時」に支配されて生きています。過去や未来の「時」、そこから後悔や憂い、心配や問題という事柄が、この「時」から生み出されていることを知っています。


この時間の概念を、神さま不在の「時」とすることから、神さまが共にある、という「時」に見方を変えてみます。


今、イエスさまがわたしと共にいるという時を毎瞬間与えてくださっているのです。私たちは、時間概念の中で、過去と現在と未来という複雑な思考を混ぜ合わせていますが、神さまの時は、とてもシンプルで「今の時」しか教えてくれないのです。そして、この恵みに満ちたイエスさまと共にある人生が、24時間連続で続いているのです。

 

モーセは、シナイ山で一週間過ごしました。雲が山を覆っていて、主の栄光がその山に宿っていました。聖書は、六日間という時を記しています。でも現実の時とは少し違うようです。雲の中で過ごす日々だったのです。現実逃避ではありませんが、常に神さまの恵み、今、この瞬間神さまの愛の中に置かれていることを感じていたのでしょう。


そして、七日目には、モーセは神さまの声を聞ききました。
命のみことばが語りかけられたのです。


月曜日から土曜日までは、雲の中で神さまの栄光に照らされて、その中を生きることができます。家庭の中で、職場の中で、学び舎の中で、神さまの愛がどのような時にも包んでいるのです。


今週、1週間、意識して見てください。雲の中で過ごすように、この世の喧騒や情報や、人の振る舞い言葉によって、自分自身を覆い尽くすのではなくては、神さまの注がれる愛、祝福、平安、喜びに豊かに包まれている、神さまの「時」を歩みます。


恐れも不安も、心配もその神さまが共にいるという雲の中には入ることができないのです。


そして、日曜日がやってきます。神さまのみことばが語られる時です。わたしたちの一週間は、神さまの愛に満ちた1日1日、モーセシナイ山の上にいたような日々なのです。


雲の上の人は神さまですが、わたしたちは雲の中の人です。
恐れは小さく、神さまの恵みに包まれて、安心して過ごします。


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5月23日 今を幸せにする3つの鍵

おはようございます。
神さまからの贈り物が届いています。


☆今日の御言葉 ローマの信徒への手紙8章1節
『従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。』


私たちの思考や思想というのは、何かを決めつけ、断定することによって、その価値を高め、よりよく評価されます。思考にとって、あやふやであることは受け入れられないのです。思考が何かを断定する時、その材料となる情報や経験は、自分や周りから取り出されます。多くのことを決めつけ、多くの人を判定し、それによって思考は自らの存在価値を見出していました。


しかし、困ったことに、思考によって断定されると、わたしたちの心はロックされてしまいます。それ以上の希望であったり、柔軟に豊かに考えたり思ったりできなくなってしまいます。可能性も制限されて、これから開かれる新しい未来の出来事も非常に狭い道を窮屈に歩むことになります。


そして、この思考のロック機能は、なかなか解除されないのです。暗証番号を忘れてしまった鍵のように身動きがとれなくなります。多くの人たちが、この思考の暗闇に閉じ込められてしまっている状況があるかもしれません。最初は良いもの、目指すべき価値として求めていたものが、私たちの人生観を非常に狭いものにしてしまうことがあるのです。


希望が一つあります。唯一の助けがあります。思考のロック機能を解除する暗証番号を知っている人がいるのです。それがイエスさまです。
「キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません・・」


まず罪というものを解除する必要があるのです。この罪というのは「的外れ」という意味があります。思考によってこれは絶対だ!と思っていることが、じつは、的外れの方向、絶望や、命の喜びを失った場所へと進ませてしまっていたら大変です。


第一の心のロックを解除します。「わたしは、愛されていない・・」
これは、人の根底を揺るがすものです。愛されていないと思うことによって、神さまの恵みを見つめなくさせてしまうのです。


神は実にひとり子を与えたになったほどに愛された・・(ヨハネ3:16)わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して・・(第一ヨハネ4:10)天地創造の前に・・わたしたちを愛して・・(エフェ1:4)みことばは、愛の中に生きている私たちであることを語り続けています。愛を心に、イエスさまを心に、最初のロックが解除されます。「あなたはとても深く愛されています」


第二の心のロックを解除します。「わたしの人生に喜びはない・・」
喜びは、この世のどこかにあると、ずっと探していました。今までの人生でもその喜びを手に取るようにして味わい知りました。しかし、この世にあった喜びは、すぐに色あせたり、かたちを変えてしまうことに気づきます。どんなに大きな喜びでも同じなのです。ずっと喜びを探さなくていけません。疲れ果てます。その喜びがない人生は不幸だと断定されているからです。


神さまに出会う時に、その喜びの理解が180度変わります。喜びは人生の中で見つけなければいけないものではなくて、喜びは私たちの内から湧き上がる泉であることを知るからです。湧き水の源泉がわたしたちの内にあるのです。神さまとつながる時に、この喜びは尽きることがないのです。二つめのロックが解除されます。「心の内に神さまの愛という源泉からいくらでも喜びを汲み取ることができるのです。」


第三の心のロックを解除します。「恐れは決してなくならない・・」
恐れは、わたしたちの人生を縛り付ける鎖のようです。しつこく、また強く自由を妨げてきます。足取りを重くして、何事をも億劫にする力があります。この恐れの鎖を断ち切るために、気休めや現実逃避、気が紛れる楽しみによって、解消しようとします。そのようなことでは本質的には自由にはなれないほど、恐れは幾度も、わたしたちの心を支配するのです。この恐れをコントロールします。


恐れが一番嫌うものがあります。それは、「平和、平安」です。この領域の中では、恐れは無力になるのです。平和と平安は、「今主と共にいる」という確信、信じる気持ち、祈りの求めによって、わたしたちにいつでも訪れるものなのです。「今、主と共にいる」これが本当のわたしの今の現実です。深く、ゆっくりと祈り求めます。何にも邪魔されることのない「主と共にいる」という静寂な心を求める時に、恐れは力を失うのです。三つめロックは外されます。


今を幸せにする3つの現実、「愛」と「喜び」と「平安」です。


この3つの鍵は、神さまの祝福が生活に流れる扉を開くのです。
 

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5月22日 神さまを体験する日

おはようございます。
「恐れなくても大丈夫」と呼びかける声が届いています。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書 10章19節
『蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。』


神さまとともに歩く道は、今日も続いています。恐れの嵐の中にあっても、つまずきの多くの石が置かれている道であっても、下を見て、状況を見て、恐れたり、不機嫌になる必要はありません。


私たちの一日の時間は、みな同じですが、どのようなことに心の時間を使いますか。心はフル稼働で24時間動き続けているかもしれません。感情にだけ支配されない、神さまの愛に満たされる時間の使い方があります。今日は神さまを体験する日です。


今も自分の感情から心配や恐れを生み出すことがあります。それらの思いが強くなっても慌てず、すべてを冷静に客観的に見つめます。すぐに反応したり、何かを判断しません。その感情に意識を集中しなければ、やがて静かになります。そして、神さまのみことばから聞こえてくる声をゆっくりと思い巡らします。


自分の力にだけ集中する思いは、わたしたちを疲れさせます。力を抜き、神さまが今までわたしの人生に豊かに働いてくださったことをゆっくり一つひとつ感謝します。


エスさまのお弟子さんたちは、かつて味わったことのないほどの喜びに満たされていました。この喜びの原因となっていたものは、自分の力よりもはるかに大きな力を体験したからです。


エスさまは「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなた方に授けた」と語られました。
今、この力を私たちのうちに経験し、人生を豊かに見つめることができるのです。


・祈りの力を体験する
日常生活でしている祈りに加えて、次のことを意識します。それは、お弟子さんたちが「主よ、お名前を使うと・・」(ルカ10章17節)イエスさまの名前を思いめぐらし、感情よりも、考えることよりも、先にイエスさまの名前を思い巡らしたのです。(多くの場合は、祈りの最後にイエスさまの名前を使いますが、それを逆にしてみます)


どんなときをするときにもです。私たちの日常の些細な、小さな出来事、そのすべてに「イエスさま・・」と呼びかけたのです。「イエスさま・・助けてください」「イエスさま・・力をください」その時、私たちの内に豊かに働き、祈りの力が豊かに働くことをお弟子さんたちは見ました。仕事、家庭のお働き、イエスさま・・これをしますと、祈りを生活に満たします。


・生活の中で神さまを体験する
エスさまの声がする環境や場所を整えましょう。祈るときに、神さまの愛がその場所を支配するようになります。この所、わたしの家庭に、わたしの人生に「神さまご自身が来てください」、と祈り求めます。


その時に今の課題や、問題にも集中しません。例えば、近くにいる人がこうしてくれたらいいのにとか、周りの状況がこのように変わってくれたらいいのに、と自分の思いをなるべくそこに置くことをしません。なぜなら、それはいつでも不満足な雰囲気をその場に作り出してしまうからです。祈りの場、賛美があふれる場所祈り求めるときに、神さまはそこに必ず見える形でより良い変化をもたらしてくれるのです。


・絶大な守りを体験する
「あなた方に害を加えるものは何一つない」これは、神さまの約束です。心配は、私たちのうちでいくらでも育てて大きくすることができます。不安は、この世の状況を見つめ続けるときに、より増大します。


目の前にある人生の喜びを阻む壁は、自分でつくりだしているものなのです。みことばは、いつでも、私たちに本当の今を教えてくれています。「あなたは守られる」「あなたを脅かすものはない」「あなたの将来に希望を置いている」それ以外のものが私たちを支配することはないのです。


喜びの力が私たちの今日を完全に守っています。
 

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5月21日 食べると元気になるパン

おはようございます。
「そのままのあなた」であることが本当に素晴らしい


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 11章23ー24節
『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』


ある本にこのようなお話がありました。


「道端に、物乞いをしながら生活している人がいました。その人は、いつも木箱の上に座り、道行く人たちに手を差し出し、自分の必要を訴えていました。困っている状況を知ってもらい、そして助けを求めていたのです。ある人がそっと近づいて、「あなたがいつも座っている木箱の中を見たことがありますか?」物乞いの人は、首を振ります。自分が座っている木箱の中身には関心がなかったのですが、言われるままに木箱の中を開けてみました。そうすると、自分が求めていた以上の宝がたくさん詰め込まれていました。」


これは一つの例え話であったと思います。周りを見ながら、自分を満たしてくれるものを探し、状況や環境が本当の幸せを与えてくれるものだと思って生きてしまうことがあります。今日、私たちの内に与えられている素晴らしい宝、すでに私たちがもっている一人ひとりの輝きを見つめる時でありますように。


エスさまは、十字架にかかる前の日、パンを取り、それを裂き、一人ひとりに分け与えました。最も暗い夜です。最も悲しみの夜であり、動揺と不安に押しつぶされそうな時であったでしょう。この分け与えらたパンを受け取った人の心には、不信もありました。裏切りもありました。そして、神さまの御心から背く思いを抱く人もいたのです。


そのような中にあって命のパンは新しい時代の希望となりました。


一人ひとり大切に手渡された命のパンがあります。イエスさまご自身が与えられているのです。とても豊かで、確信に満ち、慈愛の眼差しで見ていてくださる方と共にいるのです。わたしたちの人生のすべてを知っていてくださるのです。喜びも、悲しみも痛みも心配も・・。


エスさまご自身を手で触れるように、見て確認するように生きていくことができます。


命のパンであるイエスさまを手に取る時、わたしたちの人生は希望に向かって動き出します。否定的なこと、自分の不幸、背きや不安、いつもそれを取り出して、見つめて生きていました。今日、豊かな命を手にします。そっと握りします。


命をパンを食べます。心で繰り返し、みことばを思い起こし、味わい続けます。いつでも、心から恐れを取り出そうとする自分がいたら、みことばを握り、思い起こし、自分自身に神さまからの愛のみことばを語りかけます。


私たち自身を祝福してくださる神さまを体験する時です。
神さまは、祝福をもっと私たち自身を見ていくださっています。


お弟子さんたちがこのパンを受け取った時は、十字架の前の夜、苦しく、心が痛み、後悔がありました。しかし、このパンは命でした。一人一人の心に希望と祝福をもたらす命でした。


たとえ、神さまの真実の愛に背を向けることがあったとしても、それによって、神さまの私たちへの信頼はゆらぐものではありません。どこまでも、いつまでも、私のうちに、毎日、毎瞬間、命のパンを与えて続けてくださるのです。


そして、いつでも、3日目の復活の朝に生きるように私たちを今日も励ましてくださっているのです。3日目の朝は祝福です。赦しと希望です。「あなたと共にいる」というみことばの命が宿っているのです。


この命を取り出しましょう。私たちは決して失望に向かって今日を生きているのではありません。
そっとわたしたちの内側を見つめてください。救いの輝きは与えられているのです。


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5月20日 神さまと共に「今」を生きる

おはようございます。
神さまとの関係は義務ではなく、豊かな愛の関係です。


☆今日の御言葉 ヨシュア1章5−6節
『あなたの命の続くかぎり、誰一人あなたの前に立ちはだかる者はいない。私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。』


苦痛というのは、過去や未来にしか存在できないそうです。


「今」も苦しみや痛みを抱えている私の心があるかもしれません。でもよく考えてみると、それは過去の痛みであって、これからの未来の心配や憂いである可能性があります。


今を生きるというのは、とても難しいことなのかもしれません。実は本当の今を生きていないのです。今はどのような時ですか。この瞬間です、この空間と時間です。神さまの命のみことばが語られている聖なる時です。あなたを脅かすものはありません。あなたを傷つける人はいません。周りがどのような状況であったとしても、深く、静かに、祈り求め、豊かな神さまの愛の満たしが今注がれているのです。神さまの愛につながっている静かな時です。


たくさん心配、課題、これからの不安が心にあったとしても、神さまに祈ります。
この瞬間、今いるところに、神さまのすべてを包み込む愛が天から光のように輝きますように。
聖なる神さま、祈りを導いてください。


「神さまは、わたしはあなたそばにいたいのです。わたしの心はたくさんの心配や重荷を抱えることがあります。あなたの愛のみことば今聞きたいのです。人の言葉が心に刻まれています。誰かの思いで心が乱されています。この世の不安が覆い、明日を見つめることができません。


今、あなたの愛のみことばを心に、隅々にまで満ちあふれさせてください。恐れを締め出し、傷をあたたかい手で癒し、過去や未来のたくさんの重荷から自由にしてください。聖霊を豊かに注ぎ、今この所に、今この場所に、あなたの姿をはっきりと心の目でみることができますように。わたしたちの今日の歩みを支えてください。家族を災いから遠ざけてください。悲しみのある心に慰めを、寂しさの中に愛の満たしを、わたしの友に、大切に人々に注いでください。アーメン」


神さまのみことばを聞いて生きていくように導かれたヨシュアという人がいました。


ヨシュアは、過去と未来を見ていました。モーセとともに荒れ野を旅していたイスラエル民の苦悩を見ていました。そして約束の地での自分のこれからの大きな使命に押しつぶされそうになっていたかもしれません。自分がリーダーとなって、この民を率いることができるだろうかと強いプレッシャーを感じていたことです。


ヨシュアの心から声がしていたでしょう。「自分にそれができるだろうか」「モーセのようなリーダーになれるだろうか」「失敗してしまうのではないか」「自分を信頼してくれる人はいるだろうか」


神さまは、ヨシュアに本当の今を見つめさせたのです。過去や未来に心を動かされる必要はないのです。「私は今・・この瞬間、あなたの共にいる。あなたを見放すことは、あなたを見捨てることもない・・。」神さまのみことばヨシュアを包み込みました。


この確信に満ちた、神さまの約束の言葉がわたしたちを覆っているのです。


いつでもこの瞬間の「今」を生きます。
過去からの声だけを聞き、未来を自分の視点でみようとすると目標を見失います。


一瞬一瞬の今を神さまと共に生きるならば、強く、雄々しく、前へと進むことでしょう。
 

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5月19日 イエスさまとキャッチボール

おはようございます。
重荷に委ねれば、神さまが支えてくれます。


☆今日の御言葉 ヨハネの第一の手紙1章9節
『私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。』


神さまをより深く、より豊かに体験する方法があります。


心の準備体操が必要になります。体をストレッチして伸ばすように、心の深呼吸をしてみます。何事も自分の凝り固まった意識の中に閉じ込めずに、自由な喜びを妨げていることに支配されず、手を伸ばすようにして、神さまの注がれる愛をゆっくりと見つめます。大切な神さまの子なのです。


すべては神さまの大きな手の中に握られています。先行きの不安を抱えることもあるかもしれません。周りにあるすべてのことは変えることができませんが、私たちの心は変えることができます。


どのようにして、私たちは、もっと近くに神さまを体験することができるでしょうか。
私たちの心の意識を変えてみます。神さまとの関係を上下関係、縦の関係として見るのではなくて、共にいてくださる方、横の関係で見るようにします。


天の高いところにいるお方は、この地に来てくださいました。
エスさまは、わたしたちを「友」と呼んでくださっているのです。


今日のみことばに「告白」という言葉があります。すべての願いと思いをそば近くにいて聞いてくださるイエスさまです。天の高いところから見下ろして断罪する方ではありません。その告白には、本当に深い私たちの痛みも、背きも、弱さもあります。


告白は、一方的にわたしが話すイメージがありますが、そうではありません。この告白には、コミュニケーションが含まれます。告白は、イエスさまとの関係の中で成り立つものです。イエスさまの愛は、すべての闇を包み込み、赦し、癒し、新しい希望のみことばをいつでも語りかけてくださるのです。


このイエスさまとのコミュニケーションは、私の罪と神さまの赦しの交換です。キャッチボールをするように、私は、深く自分の心の部分を見つめさせられながら、イエスさまと語り合います。その時間は聖なる時、祈りと黙想の時間です。それは私にとってとても辛い心の作業となることもあります。イエスさまから目を離すと恐れがきます。ただイエスさまを見つめます。


エスさまは、私たちの心の告白を通して、投げ出される数々の罪を、全ての思いを豊かな愛の手の中で受け止めてくださるお方なのです。十字架が見えます。イエスさまの涙が見えます。苦しみや痛みを負っているイエスさまの姿をより見つめることになるのです。イエスさまの痛みと私の心の痛みが一つになる時、そこに聖霊の慰めに包まれます。


告白を通してイエスさまに投げられたボールは、再び私たちに投げられます。
私たちを苦しめ、罪の仕打ちを与える罰ではありません。
愛と赦しと平和が私の方に近づいてくるのです。

 

真実で正しいイエスさまが、私たちを赦し、あらゆる罪からきよめてくださるのです。


私たちが変わることができるのは、この十字架からわたしたちの心に届けられる赦しなのです。


エスさまと心のキャッチボールをした人は、イエスさまの喜ぶことを大切に生きる人なのです。

 

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