おはようございます。
祈ったことはすでに神さまの手の中にあります。
☆今日の御言葉 ヨハネ20章27−28節
『それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。』
1870年生まれのドイツの彫刻家であるエルンスト・バルラハという方がいます。戦争や貧困、飢餓で苦しむ人々の心の情景を芸術作品として残しました。戦争の悲惨さ、悲しみをテーマにしていたので、ナチスに迫害され、多くの作品が壊されてしまったようです。それでもいくつか残っている芸術作品があります。その中で、「再会」というテーマで、復活のイエスさまがトマスを抱きかかえている木彫りがあります。その木彫りには、傷ついたイエスさまの姿、そして、苦しみや痛みを耐え抜き、イエスさまとやっとの思いで涙の再会をするトマスが姿が表現されています。イエスさまはトマスを傷ついた手で包んでいるのです。
人の心は、見ることも、また理解することも難しいことがあります。心の深い部分の悲しみは、自分でも表現することができないものです。もし、今の心情、思いが木彫のようにあらわされたらどのような姿でしょうか。
その姿のままで復活のイエスさまに出会うことができます。
どのように復活を実感できるでしょうか。私たちの否定的と思っていた感情が変えられていきます。
・疎外感は神さまの愛に包まれます
トマスは、最初、皆が集まる場所にはいませんでした。周りの人たちがイエスさまの復活を見て喜んでいます。興奮しています。しかし、トマスの心は冷めていました。ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」とトマスに言いました。トマスは「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」答えます。強気な言葉のように見えて、そこに寂しさ、痛みがあります。イエスさまはそのトマスを愛の中へ招かれるのです。
・疑いも肯定的な感情です
トマスは決して、不信仰でも疑い深い人ではありません。迷いがあって当然です。寂しさを激しい心の感情で表現したくなるほど、やりきれない気持ちを抱えていたでしょう。心を静めてくださるイエスさまです。イエスさまは力強く私たちに寄り添っていてくださっています。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」とトマスをそば近くに呼び寄せたのです。イエスさまは、トマスの心の動きを知っていてくださっているのです。
・後ろ向きでも大丈夫です
今日、私たちも心のわだかまり、前向きにはなれない問題を抱えているかもしれません。表向きは、何事も問題がないように振る舞うことができても、だれにも言えない心を抱えています。後ろ向きでも大丈夫です。イエスさまの手につながれている今日の日は、どこを歩いても、何かを見て動揺していても、私たちを背負い、守り、祝福の道へと導いてくださるのです。
イエスさまの復活を信じる道があります。自分の本当の姿を知ることです。その本当の自分の姿がどんなに弱くて、傷ついていても、生かされ、愛されていることが心に伝わる時に、イエスさまの復活の命が宿っていることを知るのです。
その時、「私の主、私の神」と呼ぶことができるのです。その思いが湧き上がってきます。私の傍にいて、すべてを支えておられる「私の主、私の神」なのです。
今日1日、「私の主、私の神」と呼ぶ日でありますように。