海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

10月8日 これさえあれば大丈夫

おはようございます。
雨の日ですね、1日守られますように。


☆今日の御言葉 使徒言行録2章38節
『そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきたない。そうれずれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。』


クリスチャン作家である三浦綾子さんを知っている方もいると思います。三浦綾子読書会の顧問をしておられる長谷川与志充先生がある雑誌の中でこのように書いています。


三浦綾子はある資料によると、日本の歴代全作家中、売上数で第8位、人気度で第7位の日本を代表する作家です。なぜ彼女の著作は、これほど多くの人々に愛され、読まれ続けてきたのでしょうか。その理由は、彼女の処女作「氷点」に出てくる「なくてはならぬもの」という一語に秘められています。彼女の著作は私たちが生きるための「なくてはならぬもの」を教えてくれるものなのです。・・三浦綾子は自伝「道ありき」において、かつて自分が罪人だったことを明らかにしつつ、それと同時にそんな自分にキリストによる「救い」が与えられ、1人生の目的がわかる者、2自分の存在価値がわかる者、3罪の赦しがわかる者、4将来への希望がわかる者、に変えられたことを証ししているのです。」


エスさまのお弟子さんであったペトロは、ある時、この「なくてはらなぬもの」について人々にメッセージをしました。イエスさまの救いが私たちには必要であることを心を込めて語り伝えたのです。「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです」(使徒2:36)


神さまはこの世に価値あるものをたくさん与えてくださっています。人が愛し合い、赦し合い、神さまにある恵みに感謝し、喜んで生きる道を与えてくださっているのです。しかし、私は、その神さまの賜物とも思える尊き宝を、十字架につけてしまうように、投げ捨て、価値を見誤り、自分の満足だけを追い求めていました。本来であれば、取り返しのつかないこと、後悔してもし切れないものを抱えています。しかし、神さまは、それを赦し、良きものに変え、私を見捨てることなく、豊かな希望を与えてくださいました。


ペトロのメッセージを聞いた時に、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」(使徒2:37)と救われるためには、どうしたら良いかと尋ねました。

 

ペテロは、救いを経験するために4つのことを語りました。


1、悔い改めの希望
悔い改めは、「向きを変える」という意味があります。自分自身がすぐに良い人間になるわけではありません。クリスチャンになると、何かの生活習慣を変えなければいけない、ということでもありません。人生の向きを変えます。目的地がはっきりとします。天の御国を目指します。すばらしい神さまの愛に満ちた場所です。涙は拭われ、労苦は報われます。向きを変えると、私は一人ではなくて、神さまがいつも一緒に歩いてくださることを知ることになります。


2、洗礼は神さまの恵みです
洗礼は、「水で洗い流す」、という意味があります。汚れがあっていいのです。完全な人間でなくていいのです。どんな心の汚れも、傷も悲しみも、心の痛みも不幸と思えたあらゆる人生の事柄も、新し視点で見るようになります。私たち一人ひとりは、神さまの愛の中で、とても価値のある、大切な一人ひとりなのです。虚しい人生はありません。自分の存在価値が尊く美しいことを知るのです。


3、罪は赦されます
赦しを知っている人は、前へ向いて歩いていく力をいつも感じようになります。失敗することがあります。後悔することがあります。人生は後に戻ってそのところからやし直すことはできません。赦しを知ると、過去を見つめる思いをイエスさまが変えてくださるのです。私たちがずっと心に痛みを抱えることがないように癒し、守り、最善のこととしていてくださるのです。私たちの人生を回復させてくださるのです。赦しは大きな力です。


4、聖霊が与えられえます
一方的に与えられる神さまの恵みがあります。わたしたちは、もう自分を守るために取引をするようなことをしません。この世では損をすることもあれば、傷つくこともあります。愛を示しても、その愛が自分の思い通りにかえってこないことがあります。神さまは、私たちの心の空洞、飢え渇き、満たされない思いを知っていてくださっています。救われるということは、天国に行けるという約束をいただいているだけではありません。日々、助けが与えられ、備えを経験し、聖霊によって満たされて生きることができるのです。


救いを受け取りませんか。「イエスさまは、わたしを救いへと導いてください。信じます。アーメン」とご一緒にお祈りしましょう。


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10月7日 最後に愛は勝つ

おはようございます。
信じる思いは、心を強く支えてくれます。


☆今日の御言葉 詩篇119編113節
『二心ある者ども私は憎み、あなたの律法(みことば)を愛します。あなたは私の隠れ場、私の盾。あなたの言葉を待ち望みます。』


コロナ禍にあって、日々格闘している方々や、医療、教育、あらゆる業種に従事している方々に感謝することを目的とした、アップフロントグループのテレワーク合唱というものを見ました。https://youtu.be/8xDGXCVCptg  
(賛美歌とは全く関係がありません・・・ )


その中で、1990年に発売されたKANというアーティストの「愛は勝つ」という曲が歌われていました。このような歌詞です。


「心配ないからね、君の想いが誰かにとどく明日がきっとある。どんなに困難でくじけそうでも、信じることを決してやめないで・・


求めてうばわれて、与えてうらぎられ、愛は育つもの・・遠ければ遠いほど、勝ちとるよろこびはきっと大きいだろう。心配ないからね。君の勇気が誰かにとどく明日はきっとある。・・信じることさ、最後に愛は勝つ


今の時代、シンプルに生きるということを多くの人が学んでいます。複雑なものがそぎ落とされます。あらゆる不必要なことが明らかになってしまいました。今まで大切なものだと思っていたものの価値が変わってきました。これからは、ますます、人間の本質だけが現され、見つめられる時代です。私たちの内側に自分を支える何かがあるかということが問われて行く世代に生きています。


今日の御言葉の中に「二心」という言葉があります。この言葉は、ダビデという人が人生のある場面で実際に経験したことから出ています。仲間に裏切られました。それによってダビデは、地位も名声も失うことになるのです。思ってみないことでした。その人のために良くしていても、悪しきものを差し向けられました。ダビデは、自分の本質を見つめるようになりました。


自分の本質、一番深い部分を見た時に、みことばがありました。みことばは神さまの愛です。ただそれだけが自分の内側に輝いていたのです。


シンプルさは、私たちの人生を豊かにしてくれるのです。
いつでも3つのことを考えます。


・逃れ場があります。
シンプルさとは反対に、この世の中は複雑になっていきます。あらゆる情報が聞こえてくる時代になります。そして、心はさまよいます。本当に大切なことは何かと考える暇ももないほどです。


その時、私たちは、逃れ場に行きます。それは、神さまの愛の中であり、教会であり、祈りです。逃れる場所があるのです。休む場所があるのです。無理しないで、休むことは、神さまとの貴重な時間で豊かな時間となります。


・盾となって守ってくれる方がいます。
人間関係は、私たちの人生の幸不幸を決めてしまうものです。人間関係の量があまりに多く、自分の心が無防備であれば傷つくことばかりです。近い関係であっても、本当の意味で信頼し合うことが難しいこともあるかもしれません。


愛はすべてのことを覆うものです。互いに違う気持ち、思いがあって当然です。わかりあえないからこそ、人間関係の豊かさが生まれることもあります。神さまは、盾のように私たちの心を守ってくれます。その時、私たちは安心して愛を分かち合うことができるのです。


・待ち望む時に、力に満たされます。
私たちは、前に進むこと、何かを成し遂げることにだけ、価値をおいてしまいます。人と違っていたり、人のペースに疲れたり、追い立てられるようにして日々歩かなければならいことがあります。疲れても意識せず、自覚できずに走り続けるのです。


足を止めることが必要です。立ち止まり、人々は流れるように追い越し、自分の前へ進み出すでしょう。それでも、私が私であることのほうが、最も価値あることなのです。人より先に進んで、何かの賞賛という栄冠を手にしても、自分の本質を見失っていたら、意味がないことです。神さまの愛は、みことばの中から聞こえてきます。ゆっくり歩み、満たされて歩み、祝福を見つめて今日を歩みます。


心に宿る愛を信じている人が人生の本当の勝利者になるのです。
 

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10月6日 声援を送ります

おはようございます。
信仰と希望と愛で多くの問題は乗り越えることができます。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙12章1節
『こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。』


あるスポーツ店に行った時に、「W.W.J.D」と文字が刻まれたブレスレットが置いてありました。これは、アメリカのクリスチャンアーティストやプロスポーツ選手が好んで腕につけているものです。意味は、「What Would Jesus Do」の頭文字をとったもので、「イエスさまなら、こんな時どうするだろうか?」と問いかける言葉です。これは、祈りの言葉であると言われています。


私たちは、毎日様々なことに直面しています。それは、何かを選択することの連続であるかもしれません。この場合は、こうしよう、あの人にはこう言おう、と自分の経験や知恵で何かを選択することがあります。もちろん、自分の知恵で正しい選択ができることもたくさんありますが、後悔や失敗してしまうこともあります。


その時、祈りの思いをもって立ち止まります。「イエスさまなら、こんな時どうするだろうか?」と心に問いかけて、また歩み出します。


どのような力を経験することができるでしょうか。


・励ましの力ー
疲れ果ててしまう時に、励ましが必要です。聖書のみことばの中には、私たちを励ますことばがたくさんあります。多くの証人たちがいます。過酷な人生を歩みながらも、神さまの恵みによって支えられてきた人々です。私たちの労苦を知っています。私たちの心の痛みも経験しました。その人たちが、いつでも、雲のように私たちを取り囲み、「大丈夫、その道には希望がある」と呼びかけていてくれるのです。


・赦しの力ー
すべての重荷や絡みつく罪が私たちの今日を暗くしてしまうことがあります。少し立ち止まり、イエスさまを思う時に、「重荷を負っている人はわたしのところに来なさい・・休ませてあげよう」と声が聞こえます。「あなたの罪は赦された・・」と愛をもって語りかけてくださる方がいます。何も心配せずに、恐れずに、信頼して私たちは、今日を走り続けます。


・忍耐の力ー
自分に定められている競争に集中します。神さまの使命が一人ひとりにあります。他の人の人生をみて走ろうとすると、自分のペースを乱してしまいます。神さまの愛は大きく、小さな私をも大きな神さまの業のために用いてくださるのです。時には、疲れ果ててしまような時もあるでしょう。もうこれ以上走りたくないと思ってしまうこともあるでしょう。その時は給水所があります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。・・その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)


空を見つめ、雲を見上げ、イエスさまに祈り求めるように今日を歩みます。「大丈夫、わたしが一緒にいる!」と神さまから声援が届いています。
 

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10月5日 あきらめないで

おはようございます。
助けは、必ずやってきます。神さまのもとから。


☆今日の御言葉 ヨシュア記2章21節
『女は「お言葉どおりにいたしましょう」と言って二人を送り出し、彼らが立ち去ってから、真紅のひもを窓に結ぶつけた。」


ジョン・バンヤンの「天路歴程」という書物を読んだことがあります。滅亡の市に住む男クリスチァンは神の都(天国)に向かって旅をします。途中、落胆の沼を通り,死の影の谷を過ぎ,虚栄の町では投獄されるなど,多くの罠、苦しみ、危険を経験します。


この物語に、「軽率」と呼ばれる人が寄り添い誘惑します。道徳という人も近づき、神の言葉に従うなと助言をします。そのように数々の困難を乗り越えなければなりませんでした。

 

私たちの人生の旅路はどうでしょうか。たくさんの心挫かれること、惑わされてしまうこと、もう何もかも投げ出したくなることがあるかもしれません。神さまを信じていても、こんなことばかり嫌だ、と感じてしまうかもしれません。でも負けないでください。あきらめないでください。


神さまを信じて、天に続くこの道は、本当に素晴らしい慰め、勝利、祝福が待っています。どんなに大きな試練の中にあっても、イエスさまとともに歩む道は、希望の道が示され、力が与えられ、必要はすべて備えられるのです。


今日の聖書の箇所に、ラハブという一人の女性のことが書かれています。この女性は、カナン人(異邦人)で遊女でした。神さまの救いからは一番遠いところにいる人と思われていました。


天路歴程ではありませんが、ラハブは滅びゆく町エリコの住人でした。城門を固く閉ざし、何かを受け入れること、学ぶこと、愛を分かち合うことができない町でした。


この城壁に近づいてくる神さまの救いがありました。敵ではありません。神さまの救いの訪れが近づいていたのです。多くの人は身構えたでしょう。敵だと思い、自分自身を守るために防御や攻撃しようと思ったでしょう。しかし、ラハブは柔軟で穏やかで、神さまの救いの時を待ち望んでいました。身構える必要はありません。恐れて慌てる必要もありません。信じる思いをもって、心を開くようにして、神さまの救いを受け止めることができるのです。


滅びの町から私たちも旅立ちましょう。
私たちの天路歴程があります。その道は祝福につながっています。
3つのことをいつでも思い起こします。


1、ラハブはみことばを握りました。
「あなたの言葉は私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119:105)大きな荷物を抱えても、手には小さくても命のみことばがあります。そのみことばを握る手があらゆる困難から守ってくれます。大きな希望への歩みへと導いてくださるのです。


2、穏やかに受け入れました。
「信仰によって遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした。」(ヘブライ11:31)何事も慌てず、祈りをもって、問題に対処します。信仰が心に宿ります。今日の労苦はその日だけ、明日は、明日の自分が神さまの助けの中で何とかやってくれます。


3、真紅のひもを窓に結びつけました。
真紅のひもは、救いのしるしでした。この真紅のひもによって結びつけられている人は救われたのです。この真紅にひもは、十字架から手渡されます。十字架に近づきましょう。そのままで赦され、愛されることを知るのです。


今日の歩みの先には、祝福が待っています。


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10月4日 心は愛で満たされます

おはようございます。
秋の爽やかな風が心にも安らぎを与えられますように。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書19章9−10節
『イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。』


聖書にザアカイという人が登場します。ザアカイという名前の意味は、「正しい」「清い」という言葉から来ていますから、日本語では、「ただしくん」、「きよしくん」という名前でしょうか。


ザアカイが生まれた時には親の期待、社会でりっぱに生きて欲しいという願いが込められていたのだと思います。どのような生育過程であったかはわかりませんが、ザアカイは収税人となりました。当時の収税人は、皆から嫌われ、人々から徴収したお金の一部を騙しとり、不当に利益を得ていました。


ザアカイの親の気持ちであったらどうでしょうか。悩んでいたかもしれません。思うように子育てできなかったと自分を責めてしまうでしょうか。

 

子育て情報誌「コミュニケーション」でクリスチャンの精神科医である佐々木正美先生が次のように書かれています。


「親の前で甘えられる子は、小さなたくさんの安心を心に刻みながら、すこしずつ自分に自信を貯えているのでしょう。子どもが親に甘えられず先生に甘えていたり、家ではいい子なのに外ではわがまま放題の場合、その子は、「こっちを見て」「自分を愛して」というサインを一生懸命出しているのだと、気づいてあげたいものです。」


ザアカイは、イエスさまが通り過ぎる時に、皆は静かにイエスさまの姿を見ていたのですが、突然木に登りました。皆はジロジロと批判するような眼差しでみていたでしょう。「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。」(19:4)周りの人たちは、困った人だと呆れたかもしれません。誰かが注意したかもしれません。でもそれは、ザアカイの心の寂しさであったのでしょう。「自分を愛してほしい」という思いが、木に登るという行為だったのでしょう。

 

エスさまは、そのザアカイを見つめました。皆が迷惑しているからやめなさないと、しつけをするようにはしませんでした。じっと見つめたのです。語らずとも、「どうして欲しいの?」という眼差しを向けたのです。ザアカイは、心に寂しさを抱えながら生きていたのです。

 

ザアカイも心をイエスさまに向けたでしょう。そして、イエスさは、ザアカイの気持ちを汲み取ったのです。「急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に止まることにしている」(19:5)突然のイエスさまの言葉です。でもそれは、突然ではありませんでした。イエスさまとザアカイの心の対話があったのです。だからこそ、イエスさまは、ザアカイの気持ちを受け止めて、ザアカイの家に泊まることにしたのです。


愛を飢え渇く心があります。お金でも、友情でも、埋めることのできない心の空洞です。それは、イエスさまの愛でしか満たすことのできない心の一部分があるのです。周りの人たちは、イエスさまに非難の声を浴びせます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)ザアカイは、そのように人々に思われていたのです。しかし、もう関係ありません。イエスさまが心の友となってくれたのです。あの木に登る行為を否定しなかったのです。心の叫びを受け止めてくれたのです。ザアカイは、喜んでイエスさまを迎えました。


エスさまは、ザアカイとゆっくり食事をしました。話を聞きました。時間がたつにつれて、ザアカイの心は愛に満たされていったのです。変わりたいと思っても変わることができなかったザアカイが、イエスさまの愛で変えられたのです。「財産の半分を貧しい人々に施します。誰かからでも、だまし取ったものは、それを四倍にして返します。」(19:8)


私たちもザアカイのように木に登るようにして、自分の心の渇望を何かで満たすために、「自分を見て」「自分を愛して」と心が叫ぶかもしれません。イエスさまは、その心をじっと見つめて、わたしはあなたの側にいると呼びかけてくださるのです。豊かにそのままで愛されているのです。


「今日、救いがこの家を訪れた!」(19:9)
神さまの救いは、その場所に訪れます。


大きな愛の御手が今日の日を満たしているのです。


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10月3日 今日は幸せの日

おはようございます。
一度限りの人生を喜び楽しみます。


☆今日の御言葉 詩篇32編1−2節
『幸いな者、背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者、主に過ちをどがめられず、その霊に欺きのない人。』


誰かの必要のためにいつも一生懸命であったり、自分以外のことで大変であったり、日々たくさんの労苦を担って生きていることがあると思います。どんなに助けられているでしょう。お疲れさまです、そしてありがとうございます。自分を大切にするためのお時間がもてますように。自分を労わり、時には自分を喜ばせるような安らぎの時がありますように。


日々幸せを実感するためには、自分の五感に心地よいことをすることが良いみたいです。好きなものを見たり、感じたり、心地よく感じる音楽や音を聞いたり、心安らぐ匂いを嗅いだり、元気になる美味しいものを食べたり、自然に触れてみたりと、体や心で感じる心地よさが今日の日を幸せにしてくれます。ゆっくりと深呼吸して心を満たしましょう。

 

聖書は、どうでしょうか。神さまを信じると幸せになるでしょうか。今日のみことばの中に「幸せな者」と繰り返し語られます。


聖書の5つの幸せ(五感)を見てみましょう。


1、耳で聞く、幸せ
神さまはいつでも私たちに語りかけています。時には優しく、時には力強く、私たちが迷うことがなく、落ち込み、傷ついたままでいることがないように、神さまの愛のみことばは届けられるのです。みことばはは、言葉を超えて、私たちの存在を包んでいます。「これは私の愛する子」(マタイ3:17)あなたはどれほど愛されている存在でしょうか。


2、赦されている、幸せ
赦しという言葉は、目と関係しています。神さまは、人の罪を断罪して、滅びに行く最悪なものとして見ません。罪を自覚させつつも、うなだれる頭をあげて、赦しの中で天を見つめて生きるようにと呼びかけてくださっています。イエスさまは、十字架の上から私たちを見つめておられます。「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)私たちはいつも赦され、祈られている存在です。


3、覆われる、幸せ
どのように自分の願う幸せを手にすることができるでしょうか。良いことを求めて生きようと思っても、自分の内側ではそう生きることを妨げる何かがあるのです。自分の弱さ、暗闇だけを思うと幸せは実感できません。私たちが何を抱えていても、自分が変わることができなくても、覆われて、包まれて、神さまの愛の中に生かされている尊い存在なのです。「あなたの罪を思い起こすことはない」(イザヤ43:25)私を包む神さまの愛を感じます。


4、咎められない、幸せ
私たちは、いつでも自分を責めることを得意としてしまうことがあります。人の言葉や振る舞い、情報や状況を通して、自分の存在価値を否定してしまいます。過ちに対して救いようがないと咎め続けてしまいます。神さまは私たちをいつでも立ち上がらせ、成長させてくださいます。たとえ失敗をしても人生の道が閉ざされることは決してないのです。「それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)神さまによってどこからでもやり直すことができます。


5、欺く必要のない、幸せ
自分を守ることに一生懸命になることがあります。正直に、素直に生きているだけでは、この世を賢く生き抜くことはできないと思うかもしれません。背伸びをしたり、誇らしい姿を見せたり、本当の自分とはかけ離れてしまうことがあるでしょう。そのままでいいのです。神さまに愛されて素直に生きる人が本当に祝福され、幸せなのです。幼子の心にはなれませんが、神さまの前でいつでも幼子のようでありたいのです。「神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)純粋に両手をあげて神さまに何でも求めましょう。


今日の日の豊かな幸せを心よりお祈りしています。
 

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10月2日 後ろ向きでも大丈夫

おはようございます。
祈ったことはすでに神さまの手の中にあります。


☆今日の御言葉 ヨハネ20章27−28節
『それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。』


1870年生まれのドイツの彫刻家であるエルンスト・バルラハという方がいます。戦争や貧困、飢餓で苦しむ人々の心の情景を芸術作品として残しました。戦争の悲惨さ、悲しみをテーマにしていたので、ナチスに迫害され、多くの作品が壊されてしまったようです。それでもいくつか残っている芸術作品があります。その中で、「再会」というテーマで、復活のイエスさまがトマスを抱きかかえている木彫りがあります。その木彫りには、傷ついたイエスさまの姿、そして、苦しみや痛みを耐え抜き、イエスさまとやっとの思いで涙の再会をするトマスが姿が表現されています。イエスさまはトマスを傷ついた手で包んでいるのです。


人の心は、見ることも、また理解することも難しいことがあります。心の深い部分の悲しみは、自分でも表現することができないものです。もし、今の心情、思いが木彫のようにあらわされたらどのような姿でしょうか。


その姿のままで復活のイエスさまに出会うことができます。
どのように復活を実感できるでしょうか。私たちの否定的と思っていた感情が変えられていきます。


・疎外感は神さまの愛に包まれます
トマスは、最初、皆が集まる場所にはいませんでした。周りの人たちがイエスさまの復活を見て喜んでいます。興奮しています。しかし、トマスの心は冷めていました。ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」とトマスに言いました。トマスは「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」答えます。強気な言葉のように見えて、そこに寂しさ、痛みがあります。イエスさまはそのトマスを愛の中へ招かれるのです。


・疑いも肯定的な感情です
トマスは決して、不信仰でも疑い深い人ではありません。迷いがあって当然です。寂しさを激しい心の感情で表現したくなるほど、やりきれない気持ちを抱えていたでしょう。心を静めてくださるイエスさまです。イエスさまは力強く私たちに寄り添っていてくださっています。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」とトマスをそば近くに呼び寄せたのです。イエスさまは、トマスの心の動きを知っていてくださっているのです。


・後ろ向きでも大丈夫です
今日、私たちも心のわだかまり、前向きにはなれない問題を抱えているかもしれません。表向きは、何事も問題がないように振る舞うことができても、だれにも言えない心を抱えています。後ろ向きでも大丈夫です。イエスさまの手につながれている今日の日は、どこを歩いても、何かを見て動揺していても、私たちを背負い、守り、祝福の道へと導いてくださるのです。


エスさまの復活を信じる道があります。自分の本当の姿を知ることです。その本当の自分の姿がどんなに弱くて、傷ついていても、生かされ、愛されていることが心に伝わる時に、イエスさまの復活の命が宿っていることを知るのです。


その時、「私の主、私の神」と呼ぶことができるのです。その思いが湧き上がってきます。私の傍にいて、すべてを支えておられる「私の主、私の神」なのです。


今日1日、「私の主、私の神」と呼ぶ日でありますように。
 

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