海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

9月12日 相撲(すもう)のルーツは聖書に!?

おはようございます。
ゆっくりと自分と向き合い、私らしさが輝く日でありますように。


☆今日の御言葉 創世記32章25ー29節
ヤコブは一人、後に残った。すると、ある男が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その男は勝てないと見るや、彼の股関節に一撃を与えた。ヤコブの股関節はそのせいで、格闘をしているうちに外れてしまった。男は、「放してくれ。夜が明けてしまう」と叫んだが、ヤコブは、「いいえ、祝福してくださるまでは放しません」と言った。男が、「あなたの名前は何と言うのか」と尋ねるので、彼が、「ヤコブです」と答えると、男は言った。「あなたの名はもはやヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。あなたは神と闘い、人々と闘って勝ったからだ。」


相撲(すもう)が好きな方も多いと思います。あるテレビで紹介されていたことですが、旧約聖書には、原語のヘブライ語で「シュモー」とか「スモー」という言葉が出て来ます。この言葉は、「彼の名前」という意味があります。また、すもうで「ハッケヨイ、ノコッタ」という掛け声があります。これもヘブライ語では、「ハッケ=投げつけろ」「ヨイ=やっつけろ」「ノコッタ=やったぞ(大丈夫)」という意味にもつながるということです。中東と日本をつなぐシルクロードから「スモウ」の文化も伝えられたのではないかと思う人たちもいるようです。


ヤコブは、ある夜に神さまと格闘(すもう)をしました。非常に激しい取り組みでした。どちらが勝つか、負けるか、ハラハラしながら見つめるような状況であったと思います。ヤコブは、大きな問題を抱えていました。それは、兄弟との確執です。その和解のために、ヤボクという川の橋を渡っていました。和解できる望みはありませんでした。大きな課題、試練に向き合う時に、自分の力以上の存在を求めるようになります。


そして、問題の解決よりも先に、「大丈夫、神さまは守り祝福してくださる」と思えた時に、すでに祈りの答えをいただいたことになります。ヤコブは、神さまの祝福の確約を求めて相撲(すもう)をしました。


どのような格闘であったのでしょうか。ひと時も目が離せない取り組みでした。


・神さまの一撃
ヤコブは、神さまに挑戦します。力を尽くしました。ヤコブは、神さまを追い詰めていきます。人間は、つねに神さまに挑戦しているのかもしれません。あらゆる知恵を尽くして、あらゆる思いで神さまを乗り越えるようとしている人類の歩みがあります。ヤコブは、その時、股関節に一撃をくらいます。命の危険ではありませんが、とても大切な部分を怪我するのです。足をひきずったままでは勝つことはできないでしょう。私たちはある時、砕かれた心にさせられる時があります。神さまを必要としている私であることを気づくのです。


・祈りという得意技
神さまに力では勝てませんが、人間の切実な祈りには、神さまの心が動かされるのです。問題の中にある時、痛みの中にある時、切実な求める祈りが心に生まれます。ヤコブは、神さまを放しませんでした。諦めませんでした。祈り続けました。信じ続けました。痛みがあっても、そのことによって自暴自棄になることはありませんでした。いつでも、信じる道、祈りが聞かれる道があることを見つめ続けたのです。「祝福してくださるまでは放しません」問題の解決以上に、神さまに祝福の御手で守られることを求め続けたのです。


・祝福の人という勝利
わたしたちは、今、何を経験しているでしょうか。どのような自分の姿を見つめるでしょうか。神さまの祝福は、感覚的なものでも、目に見えて良いことばかりが起きる状況的なことでもありません。私自身の今が変えられることです。私たちは憂いの人ではありません。悩みの人でもありません。絶望を経験している人でもありません。祝福の人です。神さまは私たちとともに歩いてくださり、ヤコブは大きな課題に向き合わなければいけませんでしたが、祝福の人は守られるのです。心配する必要はありません。祝福の流れの中で、神さまの最善が行われるのです。


「神さまは私を祝福し必ず守ってくださる」と、心に豊かに思う日でありますように。
 

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9月11日 心の窓を開けましょう

おはようございます。
朝日のようなイエスさまの優しい眼差しが注がれています。


☆今日の御言葉 ペトロの手紙第二 3章9節
『ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。』


好きな賛美歌シリーズです。賛美歌21の430番に「とびらの外に」という賛美歌があります。このような歌詞です。


「1とびらの外に、立ちつづけて、救いのイエスは待っておられる。主イエスの愛のその高さよ。われらの罪のその深さよ。2かたく閉ざした戸をたたいて、今なおイエスは呼び続ける。主イエスの愛のその広さよ、人の心の弱さよ。3私のために死んだイエスのその憐れみを、なぜ拒むか。かたく閉ざした戸を開いて、心の中に主を迎えよう。」


聖書のヨハネ黙示録3章20節「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。」の聖書のみことばを思い起こします。イエスさまは、無理やりに私たちの心に入ってくるお方ではありません。心の扉には、ドアノブが内側(私たち側)にしか付いていないので、外からは開けられないのです。イエスさまは、わたしたちの心の扉の外に立ち、いつでも大きな愛を両手に抱えて、私たちが戸を開けるのを待っておられます。


毎朝、部屋に新鮮な空気を取り入れるために、換気している人も多いと思います。ある一定の空気がずっと循環しているだけであれば、空気が澱んでしまうことがあります。それと同じように、人の中から出てくる恐れ、不満足、怒りの思いが心を暗くさせてしまうことがあります。みことばを思い巡らし、少しずつでも心が神さまに開かれるならば、心地の良い恵みの風が吹いてきます。そして、愛と喜びと平和という空気に入れ替わります。


聖書の時代に生きていた人たちは、復活されたイエスさまが天に帰られ、再び来て大いなる救いを実現してくれることを待ち望んでいました。でも、なかなか現実は変わりませんでした。人々の心から不満足が出て来ました。「主は約束を遅らせているのではないか・・」「なぜ、早く私たちの現実を変えてくれないのか・・・」との思いがあり、教会の中にも重たい空気が流れていました。


ペトロは、教会に手紙を書き送りました。イエスさまは、約束を遅らせているのではないこと、一人も滅びることがないように、救いの恵みを携え、とびらの外に立ち続け、その戸を開けるのを待っていることを伝えるのです。


この救いの恵みは、一回限りのことではありません。毎朝、毎瞬間、心が暗くなったとき、イエスさまの愛を見失ってしまう時、人の言葉に傷つき、呪いの言葉のようなものを聞いた時、いつでも「イエスさま、わたしの心にお入りください。わたしを満たし、わたしを救い、わたしを赦し、お守りください」と祈るならば、イエスさまは、大きな平安を携えて、私たちの心を愛で満たしてくださるのです。


その時、神さまに愛されていること、イエスさまに赦されていること、今抱えている心配も課題も、不思議なほどに最善に導かれていくことを知るようになるのです。どんなことが起きても大丈夫です。神さまは必ず守ってくださり、打ち倒されても、立ち上がり、傷つけられても、癒してくださるのです。


心の窓を開けましょう。換気をするように、そうすれば、神さまが大きな喜びの風が吹いてきます。
歓喜が心に溢れる日でありますように。
 

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9月10日 癒しの日

おはようございます。
空の星のように神さまの恵みは与えられます。


☆今日の御言葉 マルコによる福音書6章56節
『村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人を広場に寝かせ、せめて衣の裾にでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆、癒された。』


ある時、「レーズンエクササイズ」というものをしたことがあります。
1、レーズンを一粒手に取り、手のひらに置きます。2、手にひらにあるレーズンを見て、目に見える部分をただ観察します。ここで一つのことを強く意識します。このレーズンを見るのは初めてで、見ているこの状態も初めてで、心の状態も初めて経験すると思って見ます。つるつるした感じ、でこぼこした感じ、色の陰影・・。3、次は親指と人差し指でレーズンをつまんで感触を探ってみます。指の間で感じること、暖かくなっていく感じを確かめます。4、においも嗅いでみます。どんな匂いでしょうか。5、レーズンを口に入れて、舌の上にのせ、ゆっくりと噛んでみます。そして味を十分確かめて、飲み込みます。(レーズンが嫌いな方は好きなもので・・)


これは、何のために行われるかというと、今にだけ集中するためのエクササイズです。私たちは、様々な複雑な意識の中で生きていることがあります。過去のことも、将来のことも、解決した問題ですら心のわだかまりが消え去らないことがあります。私たちの人生で重要なのは、今だけです。この瞬間が私のすべてです。本当の今にだけ集中すると恐れや不安は威力を失うのです。


エスさまの衣の裾に触れた人たちがいました。その人たちは皆癒されたのです。イエスさまの衣に触れてみましょう。
レーズンエクササイズをイエスさまの衣の裾に置きかえてみます。


1、静まりの時間をもちます。だれにも邪魔されないような数分間です。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」とイエスさまは、心の安らかな場所へと招いています。何も心配しません。過去のことも今は考えません。心配がやってきても吹く風のように通り過ぎてしまうことをイメージします。はじめて、イエスさまのもとに近づくように、そのお方の存在のすべて知らなくても、私よりも豊かな愛をもって手を広げて私が近づくのを待っていてくださるイエスさまがいることをただ思います。


2、イエスさまは長い着物をまとっています。その裾は長く広がっています。誰でも触れることができます。イエスさまを頭で理解しようと思うことではなく、その衣にただ触れてみます。近くに聖書があれば、その聖書にただ手をおきます。この聖書の中に、命の言葉が語られています。救いの約束が余すことなくすべて語られています。私の今の問題を解決する道、わたしの将来に与えられる素晴らしい約束、赦しの愛、平和に導かれる道、天に蓄えられている富、尽きることのない命の泉が湧き出ています。そこから感じることを心で思い巡らします。


3、みことばは、いつでも今日の私の必要のために与えられます。私を生かす力は必ず与えられます。人生をよりよく導く知恵が備えられます。今、困っている問題も、今抱えている課題も、イエスさまにただ委ね信頼する心が与えられることを祈り求めます。「父なる、神さま・・」と静まりの心のままで、ただ祈ります。今の苦しみ、悲しみ、心の痛み、心配していること、小さな子どもが信頼している人にすべてを話すように、心を父なる神さまに注ぎだします。聖霊を感じるようになります。今も生きておられる神さまの御手にすべてが包まれていることを感じるのです。癒しの力が、慰めの力が私の手に伝えられ、心に深く豊かにとどまるのです。


触れたものはみな・・癒された。


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9月9日 幸せ時間を大切に

おはようございます。
お祈りしていることが少しでも良い方に導かれる日でありますように。


☆今日の御言葉 使徒言行録6章2−4節
『12人は弟子たち全員を呼び集めて言った。「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りの御言葉の奉仕に専念することにします。』


先日、上智大学の名誉教授であるアルフォンス・デーケン先生が天に召されたことがテレビでも放映されていました。カトリックの司祭として日本に来られて、「死生学―死に向き合うための学問」に取り組まれました。デーケン先生の書かれた文書の中でとても励まされる言葉があります。


ギリシャ語では時間をクロノスとカイロスの2つの言葉で表します。クロノスは物理的な時間の流れ、年月、日、分など量的な時間を意味します。カイロスとは一度だけ来る二度と来ない決定的な瞬間、かけがえのない質的な時間をさします。例えば、好きな人と一緒にゆっくりコーヒーを飲む2時間は長く感じません。逆に大雨の最中に傘なしで30分バスを待っている時間はものすごく長く感じます。私は、中年期、あるいは晩年期、このカイロスー質的時間について考えることをおすすめまします。」


質的時間とはどのようなときなのでしょうか。それは、私たちにとっての安らぎと充実と、幸せを感じられる時間です。何よりも私を愛し、今日を生かし、すべても守られる神さまを近くに感じられる時です。私たちは、日々たくさんの時をすごしています。大変な時もあり、向き合うことが困難な現実もあります。疲れたり、嫌になったりする時もあるでしょう。


でも、もし私たちが、カイロスー質的な時間の価値を知っているならば、日々いつでも訪れる量的時間ークロノスだけに翻弄されることなく、自分と神さまとの時間の中で豊かな心が与えられて過ごすことができるのです。


使徒言行録の時代の教会で、時間の配分に対しての問題が生じました。「その頃、弟子たちが増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられているというのである。」(使徒言行録6:1)教会に人が増えてきて、あらゆる必要が生じていました。忙しくなり、走り回り、それでもすべての必要に答えることができませんでした。混沌としていたのです。


お弟子さんたちは、時間を整理しました。問題に慌てることなく、質的時間ーカイロス、量的時間ークロノスの価値を整えていったのです。


祈りとみことばの時間ーカイロス
一日の中でも、心のある部分には、いつでも祈りとみことばを待ち望みます。私たちは、神さまを求める存在です。心には、神さまの愛でしか満たされない部分があります。混乱していると思う時、疲れ果てて何もよいものがないと思ってしまう時、私たちは、量的時間の中で疲れているのかもしれません。その時には質的時間を優先します。立ち止まり、祈り、みことばから聞こえる慰めの言葉、励ましと力を感じるまで静まります。祈りとみことばを生活の中心に置きます。心が自由になり、事柄が整理され、今日するべきこと、知恵や豊かな導きが与えられるのです。


生活の時間ークロノス
多くの時間を私たちは、生活の時に使います。たくさんのやるべき事があります。長く訪れるこの時間をどのように過ごすことが良いのでしょうか。この生活の時間には、霊と知恵が必要です。霊とは、自分の思いを超えて、神さまの御心を祈り求める人の中に注がれる力です。知恵とは、イエスさまなら、この状況やこの課題の中で、何を一番大切にするだろうかという思いに導かれることです。その生活の時間は、ひとつひとつが決して空しい時ではなくて、かけがえのない神さまの恵みが現されることを経験する時にもなっていくのです。


私にとっての価値ある喜びの時間、幸せを感じる質的に非常に豊かなひと時を意識する一日でありますように。

 

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9月8日 見て、聞いて、語る

おはようございます。
疲れた人、重荷を負っている人、共にイエスさまのところへ行きましょう。


☆今日の御言葉 コロサイ2章21節
『「手を付けるな、味わうな、触れるな」などどいう規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。』


小学生の頃に修学旅行で、日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」で有名な猿の彫刻の置きものを見ました。三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいます。由来や意味については諸説あるようですが、何も見るか、何を聞くか、何を語るか、に注意しながら、人生をよりよく築き上がるために必要な教えがあったのでしょう。


聖書の中にも、この三猿ではありませんが、「手を付けるな、味わうな、触れるな」という言い伝えを固く信じて生きている人たちがいました。それは、神さまを深く信じるために、この世の中と距離をとり、信仰とは全く関係のないことに関わらないようにしようとする教えでありました。信仰と世俗ということが明確に分けられていたのです。イエスさまは、「この世を愛されました・・」。そこにあること、住む人、汚れや暗闇の現実、決して綺麗なことばかりではないところにイエスさまは来られたのです


クリスチャンになるということは、決して制限や戒めや、不自由さの中を生きることではありません。聖書という枠組みが私たちの人生を縛り付けることでもありません。信仰的な生活と世俗との生活と分けて、区別して、自分や他の人を非難してしまうこともあります。この世界の音楽も、スポーツも、体の健康のために取り組むことも、趣味も楽しみも、すべて含めて、神さまにあって私たちの人生を喜ばせてくれるものなのです。


狭い価値観で生きる必要はありません。知恵や正しい枠組みは必要かもしれませんが、もっと神さまの愛によって押し広げられる豊かな心をもって歩いていくことができるのです。私たちは様々な現実に生きています。確かに目を背けたくなるもの、見たくないこと、そのようなものから離れる知恵を持ちながらも、イエスさまの視点でものを見ることができる私にしてくださるのです。この世では不必要と思うことも神さまは用いることがあるのです。私の考えでは最悪と思えることとも、最善のことに導かれることがあるのです。イエスさまは慈しみ、守り、回復させ、良きものにつくりかえることができるのです。


嫌な言葉は、聞きたくないのですが、たとえよりよりことではなくても、気にする必要はありません。それは、やがて私のうちには留まらず、なくなってしまうものです。みことばから聞こえてくる神さまの愛だけが心にとどまることを祈り求めています。


手を触れたくないこと、関わりたくないこと、何かをしたら悪いことが起きるのではないかという強迫観念、心配や挫折を恐れる心、マイナス方へと心が向かってしまうことがありますが、イエスさまは、私たちの手をとっていつでも、「恐れなくて大丈夫」と呼びかけてくれるのです。それには理由があります。私たちが弱くても、神さまが強いお方であるからです。私たちが挫折しても、その道は決して絶望に終わることはありません。


「すりきれそうな神経や身体的な弱さや鬱状態を、自分は霊的ではないのだと勘違いしてはいけない。祈るよりも睡眠をとるほうが、心を探るよりも身体を休めて気晴らしをするほうが必要なことがしばしばある。」(ルイス・スペリー・チャイファー アメリカにあるダラス神学校の創立者
 

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9月7日 人生を支える3つの柱

おはようございます。
台風の被害から守られますようにお祈りしています。


☆今日の御言葉 ヨハネの手紙第一 2章5節
『神の言葉を守るなら、その人の内に神が愛が真に全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。』


クリスチャンで精神医学を学ばれた田中晢先生の書物にこのような言葉がありました。「心にも形があります。形あるものは、だいたい骨組みがあります。・・たとえば、割り箸を立てようとするとき、一本では立つことができません。それでは、二本ならどうでしょうか。二本でも、まだ立たせることができません。最低、三本は必要になります。・・同じように心が自分で立つ場合にも、柱となるものが最低でも三本は必要なのではないかと考えたわけです。1、社会性と対人行動 2、自尊感情と自己受容 3、自己統制による心理的安定・・」


みことばから語られる神さまの愛は、包括的です。人間存在のすべての必要を満たすことができます。社会との関わりや自分の内面を見つめること、どう生きて行くかという人生の目的を知ることができます。それは、みことばの中から神さまの愛の豊かさが私たちに満ち溢れるからです。


3つの柱は具体的にどのように今日の私の生活を支えるのでしょうか。


1、祈りの力・・対人行動
人との関係の間に、みことばを待ち望みます。誰かの感情、人の思いが強くあったとしても、私の心は神さまの愛のみことばの中に置かれていることをイメージします。迷う時には、神さまは知恵を与えて良い道を示してくださいます。たとえ、人間関係のトラブルや難しい問題が生じていても、必ず解決の道は与えられます。待ち望み、信頼します。祈りを心の片隅に置いて、いつでも神さまを呼び求めます。私たちの人生の土台は、みことばによってしっかりと支えられます。


2、神さまから与えられる自信・・自尊感情
神さまの愛は、私たちを元気にしてくれます。神さまがどんな時にも共にいてくださると思う時に、心はしなやかに、物事には柔軟に対応する知恵が与えられます。どのように問題を解決しようかという方法論に多くの時間をとるよりも、わたしはどのように神さまに愛されていて、神様が何をしてくださるかという存在論を大切にするようになります。その時、力が与えられ、「大丈夫!」という自信を持つことができるのです。


3、なんとかなる・・心の安定
しなやかな心は、風が吹いて揺れることがありますが、打ち倒されることはありません。もうダメだと思う必要はありません。自分の弱さだけを見つめて諦める必要はありません。すべては、人生の糧となります。失敗しても、立ち上がる力を神さまは与えることができるお方です。神さまの内から溢れ出る命によって、私たちはいつでも再生され、回復され、前を向いて生きる希望を手にすることができるのです。


3つの柱は倒されることがありません。三本の矢は簡単に折られることはありません。
今日の日が祝福であふれていますように。
 

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9月6日 幸福度を上げる

おはようございます。
心と体に優しいペースで歩みましょう。
台風が通過する地域の方々が守られますように。


☆今日の御言葉 マタイによる福音書6章9ー13節
『天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちの負い目のある人を赦しましたように。私たちを試みに遭わせず悪からお救いください。』


先日、ユニセフ・イノチィンティ研究所が世界38カ国を対象に「子どもの幸福度ランキング」というレポートを発表しました。日本の子どもの幸福度ランキングは、総合で20位(38カ国中)でした。とくに、生活の満足度や自殺率を示す「精神的幸福度」は、日本の子どもたちはなんと37位だったのです。ある調査によると、日本では、15歳から34歳までの死因の一番の原因が自殺であるようです。これは先進国と呼ばれる国々の中では他に例がないとのことです。


経済的なことや、身体的な満足、食べるものや着るものがあっても、決してすべてが幸せであるということではありません。経済的な発展もどんなに必要であっても、価値ある時間を犠牲にしてしまっているのかもしれません。食べ物はすぐに買うことができても、一人一人と大切な時間をゆっくり共有することは少なくなっているのかもしれません。大人のペースで子どもたちの心が置き去りになり、非常に狭い価値観の枠組みに押し込んでしまっているのでしょうか。


ゆっくりと確実に、一人ひとりの個性が輝き、生きていることの意味、自分存在の価値を見出すことができる、お祈りがあります。
それが主の祈りです。


個性が輝く・・天の父よ
誰一人として、同じ人はいません。神さまは、人間を創造の冠、一人ひとりを素晴らしい喜びの存在としました。誰とも比べなくていいのです。何かができないことがあっても、人違うことがあっても、神さまは一人ひとりにしかできない役割を与えてくださっています。誰かを幸せにすることができます。だれかに愛を届けることができます。そっと祈って支えることができます。「天におられる私たちの父よ・・」その祈りは、神さまと私を強く結ぶ絆となり、私に与えられているもっと良い部分を深く見つめることができるのです。


生きる意味・・御心が行われますように
生きる意味はどのように知ることができるでしょうか。自分自身だけを見つめてもその意味を見出せないことがあります。社会のシステムや枠組みの中で自分はどう生きることができるだろうと思っても、自分の個性が発揮できない時もあります。主の祈りの中では御心を求める祈りがあります。「御心が行われますように・・」御心とは、神さまの思いを豊かに知ることです。みことばの中から神さまの思いが自然と心に伝わってきます。そして、みことばから聞こえる神さまの思いとと私の情熱(関心や喜び)が一つになる時、生きる意味を見出すことができるのです。


存在の価値・・日ごとの糧、赦し、試みから守られる
神さまは、私の必要をよく知っていてくださっています。豊かな眼差しをもって見つめ守ってくださるのです。私たちはどれほど価値ある人生を今日生きているでしょうか。主の祈りの中にある、日ごとの糧を求める祈りは、神さまの優しさです。私たちが重荷を負って悩み苦しむことがないように、赦しの道に歩ませてくださっています。そして、試みの中にあっても、神さまは私たちの手は離さないでいてくださるのです。生活の中に、たくさんの恵みが満ちています。感謝と喜びが心に生まれる時に、その人は最も幸せな人生を歩くことができるのです。


幸せは、神さにあって私たちの内側から生み出すことができるのです。


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