おはようございます。
疲れた人、重荷を負っている人、共にイエスさまのところへ行きましょう。
☆今日の御言葉 コロサイ2章21節
『「手を付けるな、味わうな、触れるな」などどいう規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。』
小学生の頃に修学旅行で、日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」で有名な猿の彫刻の置きものを見ました。三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいます。由来や意味については諸説あるようですが、何も見るか、何を聞くか、何を語るか、に注意しながら、人生をよりよく築き上がるために必要な教えがあったのでしょう。
聖書の中にも、この三猿ではありませんが、「手を付けるな、味わうな、触れるな」という言い伝えを固く信じて生きている人たちがいました。それは、神さまを深く信じるために、この世の中と距離をとり、信仰とは全く関係のないことに関わらないようにしようとする教えでありました。信仰と世俗ということが明確に分けられていたのです。イエスさまは、「この世を愛されました・・」。そこにあること、住む人、汚れや暗闇の現実、決して綺麗なことばかりではないところにイエスさまは来られたのです
クリスチャンになるということは、決して制限や戒めや、不自由さの中を生きることではありません。聖書という枠組みが私たちの人生を縛り付けることでもありません。信仰的な生活と世俗との生活と分けて、区別して、自分や他の人を非難してしまうこともあります。この世界の音楽も、スポーツも、体の健康のために取り組むことも、趣味も楽しみも、すべて含めて、神さまにあって私たちの人生を喜ばせてくれるものなのです。
狭い価値観で生きる必要はありません。知恵や正しい枠組みは必要かもしれませんが、もっと神さまの愛によって押し広げられる豊かな心をもって歩いていくことができるのです。私たちは様々な現実に生きています。確かに目を背けたくなるもの、見たくないこと、そのようなものから離れる知恵を持ちながらも、イエスさまの視点でものを見ることができる私にしてくださるのです。この世では不必要と思うことも神さまは用いることがあるのです。私の考えでは最悪と思えることとも、最善のことに導かれることがあるのです。イエスさまは慈しみ、守り、回復させ、良きものにつくりかえることができるのです。
嫌な言葉は、聞きたくないのですが、たとえよりよりことではなくても、気にする必要はありません。それは、やがて私のうちには留まらず、なくなってしまうものです。みことばから聞こえてくる神さまの愛だけが心にとどまることを祈り求めています。
手を触れたくないこと、関わりたくないこと、何かをしたら悪いことが起きるのではないかという強迫観念、心配や挫折を恐れる心、マイナス方へと心が向かってしまうことがありますが、イエスさまは、私たちの手をとっていつでも、「恐れなくて大丈夫」と呼びかけてくれるのです。それには理由があります。私たちが弱くても、神さまが強いお方であるからです。私たちが挫折しても、その道は決して絶望に終わることはありません。
「すりきれそうな神経や身体的な弱さや鬱状態を、自分は霊的ではないのだと勘違いしてはいけない。祈るよりも睡眠をとるほうが、心を探るよりも身体を休めて気晴らしをするほうが必要なことがしばしばある。」(ルイス・スペリー・チャイファー アメリカにあるダラス神学校の創立者)