海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

9月5日 人生の道、コースガイド

おはようございます。
神さまの目に高価で尊い存在のあなたへ。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙12章2節
『信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。』


東京オリンピックが2021年に延期になりました。今年は数枚のチケットを申し込みましたが、すべて落選しました。来年はどうなるでしょうか。聖書が書かれた時代も、すでにオリンピック競技のようなスポーツ大会が行われていました。神さまを信じて生きる道をスポーツ競技に例えて語っているような箇所がいくつもあります。今日のみことば、ヘブライ人への手紙12章はその一つです。


私たちの人生はマラソンレースのようなものです。思いがけないアクシデントもあれば、疲れ果てて、気力を失ってしまう時もあります。だれもがスタートの号令によって走り出し、今日まで生きています。それそれの走る行程があります。短くても、長くても、それぞれの人生の生きる意味と証しが残されるのです。


もし、私たちが、人生のマラソンコースの全行程を知ることができたらどうでしょうか。地図を広げるように、一緒に見ていましょう。きっと、今日生きることの意味を実感することができます。


スタート・・救いの道を歩む
人生の道は、決して絶望に満ちているのではありません。イエスさまは、救いの道の創始者であり、完成者です。昔から約束されていました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。」(イザヤ9:1)イエスさまがこの地に来てくださった意味は、救いの道に私たち一人ひとりが歩むことができるように整え、その道をつくってくださったのです。恐れは過ぎ去りました。悩みは終わりました。私たちは与えられている一日一日をそれぞれのペースで走ります。イエスさまから目を離さずに進みます。競争する必要はありません。自分の弱さだけを見なくていいのです。イエスさまだけを今日見つめます。


霊的な同伴者・・わたしはあなたと共にいる
このレースは、様々な時を通ります。疲れ果ててしまう時には給水所があります。少し足を止めて休んでいいのです。怪我や病気の時には、救護者もいます。イエスさまは、わたしと同じペースで走ってくださるのです。励まされ、愛されていることをいつでも思い起こし、決して一人でこの道を歩いているのではないことを知ります。イエスさまのペースが少し早くなりました。難関な場所に来たのです。十字架のような道を通ります。嘲り、裏切り、無理解、辛く消耗してしまう時です。イエスさまは、わたしたちの先に歩まれます。私たちが重荷で苦しまないようにしてくださっているのです。足元には恐れがあっても、イエスさまをただ見つめる時に、その道が希望の道へと続いていることを知るのです。


ゴール・・祝宴が催されます。
必ずゴールがあります。暗闇のトンネルの先には光があります。十字架の悩みが私たちの最終地点ではありません。イエスさまは、先にゴールで待っていてくださっています。喜びがまっています。祝宴がまっています。最終コーナーは辛い時もあるでしょう。よく走ってきました。労苦は報われて、目の涙は拭われるのです。最初から最後まで、イエスさまは、わたしたちと一緒でした。そして、この地上での苦しみを忘れてしまうほどの、痛みが小さいものだっと思えるほどの栄光に包んでいていてくださるのです。この祝宴は今まで経験したことのないような喜びの時となります。


エスさまから目を離さず、今日もご一緒に。
 

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9月4日 今日が救いの日

おはようございます。
自分の良いところが生かされ誰かが喜ぶ日でありますように。


☆今日の御言葉 ヨハネ黙示録1章17−18節
『この方を見たとき、私は死人にようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。』


以前、アメリカのキリスト教の歴史を勉強しているときに、ジョナサン・エドワーズという人の生涯を調べたことがあります。18世紀のアメリカで信仰復興運動(リバイバル)が起こり、その運動を導いた指導者と言われています。当時のアメリカの社会には、差別、格差、腐敗してしまうような人々の生活がありました。あるとき、ジョナサン・エドワーズが聖書からメッセージを語ったときに、多くの人々の心に神さまを求める思いが宿り、今まで教会に行ったことがなかった人たち、聖書を読んだことがなかった人たちが、神さまの救いを求めるようになったのです。人々が教会に押し寄せました。そして、人々の生活は変えられ、そのことが社会全体に大きな影響を与えるまでになりました。


書物の中で、ジョナサン・エドワーズは、ある日体験した、神さまとの出会いを記しています。「私は涙にあふれ、声をあげて泣いていた。たましいが燃え上がり、空っぽで消滅したとしか表現しようのないものになるのを感じ、塵の中に横たわってキリストだけに満たされ、聖い純粋な愛でキリストを愛し信頼し、キリストによって生き、キリストに仕え、聖なる天上の純粋さによって完全に聖められて、純粋になるのを感じたのである。」


神さまは、あるときに、私たちに深い悲しみを見せるときがあります。大きな重荷が自分の人生を苦しめていることを気づかせてくれることがあります。喜びではなくて、私の心の深いところにある闇と思えるような罪が見えるのです。その罪は、犯罪者ということではなく、自分の中にある不信、冷えた愛、欲望の虜、恐れ囲まれた深い闇を抱えているものであることに圧倒されるのです。


黙示録の著者は、「私は死人のようにその足元に倒れた」と表現しました。涙があふれ、本当の自分の深い内面に自分を奮い立たせる力がないことを思うのです。どうにか、背伸びをして自分の力で立とうとがんばるかもしれません。それでも、自分の力では完全に力強く立てない存在なのです。神さまを必要としている私たちです。自分の意識や感覚では、神さまを信じることの抵抗感を強くもちます。しかし、純粋に本質的に、本当の私の存在は、神さまの救いを求めているのです。


右の手を私の上に置いてくださる方がいます。右の手というのは、神さまの力強さの象徴です。「恐れてはならない」と呼びかけてくださる神さまがいます。自分で立ち上がることができないときこそ、恵み深い神さまの愛を知るようになります。罪は私たちを支配しません。暗闇はもう私たちを悩ますことはありません。死と滅びは私たちの人生の終着点ではありません。


今日の御言葉に「死と陰府の鍵を持っている」とあります。死と陰府に向かう門の扉に鍵をかけて、閉じるように、イエスさまの十字架は、私たちを救う力となりました。だれでも、神さまをよび求める人は、救われるのです。新しい人生がはじまるのです。心には喜びが与えられ、いつでも神さまに愛されている者としての祝福の日々が待っています。


エスさまを信じるお祈り
「神さま、そのままで私たちを愛していてくださることをありがとうございます。愛を信じ、救いを信じます。私の暗闇に光をてらしてください。自分を信じ、神さまを必要としていないかのように振舞っていました。おゆるしください。私が求める時、祈りを聞いてください。私の生涯に神さまの祝福と愛を豊かに満たしてくださり、祝福を伝え、愛を分かち合い、赦されたものとして赦し、愛されたものとして愛し、祈りの道に歩いていくことができるように守ってください。心にイエスさまを迎えます。アーメン」


神さまを信じる道に喜びがあります。
 

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9月3日 夢を抱く人

おはようございます。
大丈夫です。今日も神さまの守りの中です。


☆今日の御言葉 コロサイ3章2節
『上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたは死んで、あなたがの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。』


まだ、子どもが小さい頃、教会の近くの大島記念公園というところでよく遊ばせていました。その場所は、大島正健さんという方の生家の跡地でした。大島正健さんは、札幌農学校(現在の北海道大学)の第一期生となり、クラーク博士から教育の指導を受け、後にクリスチャンとなりました。クラーク博士は、わずか数ヶ月の日本の滞在でありましたが、聖書を用いて生徒たちに神さまの福音を伝えました。その一期生の全員が洗礼を受けるようになります。その後、大島正健さんは、日本の教育、文化に大きな影響を与えました。


クラーク博士は、キリスト教信仰を有名な言葉でまとめました。“Boys,be ambitious in Christ”(青年よ、キリストにあって大志を抱け)という言葉です。


キリスト教信仰は、決して観念的なものではありませんでした。一つの宗教の枠組みの中でだけの概念ではありません。イエスさまが共にいてくださると思える時に、私たちは夢を抱く人になります。希望を信じる人になります。どのような困難の中にあっても神さまの愛を分かち合い、生きる人になります。その道は、人間の本当の幸せにつながっているのです。


神さまにあって夢を抱く人はどのような人でしょうか。


心の中心の変革
私たちの心の中心にあることが、私たちの人生にあらわされます。恐れ、不安が中心にある時に、周りにあるすべてのことが恐れる対象となってしまいます。自分の力だけが中心にあると、だれかを見下したり、劣等感で生きるようになります。自分自身が中心になるときに、様々な生きにくい問題を引き起こります。中心をイエスさまにします。少しずつでもみことばが心の喜びとなり、祈りが自然に心から生まれてくる生き方は、本当の幸せにつながっているのです。


キリストの世界観
私たちの人生の歩む姿勢は、地面を見るように、今起きている現実だけに目を留めてしまいます。良いこと、悪いこと、難しい現実には悩みが強くなります。今日のみことばの「上にあるものを思いなさい」ということと、「キリストにあって大志を抱く」という言葉がつながっているように思いました。私たちの人生は、これからも続いていきます。そして、私の思いが神さまの思いと一つになる時に、私という小さな人生観の中にも、大きな神さまの御心があらわされるようになります。下(現実)だけがすべてではありません。横(人間関係)だけにすべての希望を見出そうとしません。上(信仰)によって、私が私らしく輝き生きる人生を見い出すのです。


いつまでも残る愛
この世にある夢は、いつかははかなく消えてしまうものかもしれません。一生懸命、夢の実現のために生きても、その夢が小さく、やがて無くなってしまうものであれば、空しさがやってきます。決してなくならないもの、私たちが最後まで抱き続けるもの、それが神さまの愛です。愛は、私たちの心を喜ばせ、愛を分かち合うときに、神さまの祝福は、どのような場所にも広げられていくのです。神さまに豊かに愛され、そして愛をもって生きる人の人生は、美しいのです。


神さまは、まだ、見たことがないような大きな恵みの業をこれから見せてくださるでしょう。
私たちを通して神さまの愛を知る人たちが起こされるでしょう。私たちを通して、絶望を感じていた人が、神さまにある希望を見い出すようになるでしょう。


そんなことを考えながら、今朝、大島記念公園でお祈りしました。
 

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9月2日 人生を変える出会い

おはようございます。
みことばのパンが焼けました。少しでも力になりますように。


☆今日の御言葉 ローマの信徒への手紙1章20節
『神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。』


先日、NHK大河ドラマ麒麟がくる」の放映が再開されました。明智光秀が主人公のドラマですが、その中で戦国時代にクリスチャンとなった細川ガラシャが登場します。光秀の娘で、後にクリスチャンとなり、カトリックの洗礼名であるガラシャという名前で呼ばれました。


17世紀のヨーロッパで、日本という異教の地で信仰を貫いたガラシャの生きざまはオペラにまでなって人々に感動を与えました。激しい時代を生き抜く中で、キリシタン大名の片山右近から神さまの福音について聞き、それをもっと知りたいという魂の飢え渇きがあって、洗礼に導かれました。


人の心に強く働く神さまの見えない性質がありました。神さまの存在は、目に見える形で私たちの前に現れるということではないかもしれません。それでも、神さまは、今日、私たちのそば近くにいて、わたしたちが神さまの恵みに出会うことができるようにと守ってくれています。


朝には、日が昇り、夕になると沈みます。風が吹き、鳥はさえずり、木々は揺らぎます。私たちが見る自然は、神さまが造られました。そこに神さまの性質があります。そして、この神さまの性質が人間に宿るように、心の中に神さまの愛と救いを実感することができるのです。心は満たされ、安らぎと力が内から湧き上がるのです。


どのようにして神さまの性質が人の内に宿るのでしょうか。


飢え渇いた魂
神さまは、救いを与えようとするときに、多くの場合、その人はある出来事や状況の中で飢え渇いた思いになります。この飢え渇きというのは、この世にある何をもっても満たされないと思うむなしさでもあります。むなしさを感じることは辛いことです。心の飢え渇きは、新しい恵みが注がれるために必要な大切な準備の時なのです。


出会い
神さまは、人生を変えるような出会いを与えてくださるのです。真実に出会わせてくださるのです。悲しみのままで放っておかれることはありません。誰かが問題の解決となる言葉をかけてくれたり、新しい出会いによって不思議に道が開かれるような時もあります。とても辛い出来事があっても魂が磨かれて、神さまを信じたいという思いが強くなるのです。


本当の強さ
人間の本当の強さは、神さまの力に支えられることです。どんなに強い人でも、荒波を乗り越えた精神力があっても、人はいつでも弱さを抱え続けます。弱さがあって、優しさ、愛、強さがその人の内から出てくるのです。そして、そこに信仰という確かな土台が築かれる時に、その人は、どんな中にあっても、自分らしさを失わず、神さまを見上げて、生きていく自由と喜びが人生に満ち溢れるのです。


エスさまの愛に出会う喜びの日でありますように。

 

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9月1日 幸せになる片付けの法則

おはようございます。
九月、祈りの答えが与えられる時でありますように。


☆今日の御言葉 イザヤ書55章8節
『私の思いは、あなたがの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるー主の仰せ。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。』


片付けが苦手な私は、ある本を手にしました。その本によると、片付けに悩む人というのは、「なかなかモノが捨てられない」という問題を抱えているようです。そして、なぜ、モノが捨てられないかというと、3つの心理効果が働いているからだと説明するのです。
1、選択回避の法則・・選択肢が多くなりすぎると人間はモノを選べなくなる。
2、損失回避の法則・・人間は自分が損をすることを非常に恐れる存在だ、ということです。
3、保有効果・・自分が一度所有したモノに、より高い価値を感じてしまうということです。


「モノが捨てられない人」のように、たくさんのことを抱え込んでしまうことがあります。私の心が、整理ができていない部屋のようにあらゆる心配や重荷でいっぱいになっているのです。もし、その心の部屋を整理することができたら、今日の日はきっとスッキリとした気持ちで歩いていくことができます。


神さまは、「私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いより高い」と言われました。


私の道は、ある時混沌として、片付けが必要な状態になっています。神さまの道は、より自由で愛に満ちて、私たちを祝福へと導いてくださるのです。


神さまの思いを知るために、3つのことを考えてみます。


・人生は、シンプルでいい
複雑に生きる必要はありません。これも、あれも、心配し、自分の手に抱え込み、それら一つ一つの結果がどうなるかと考えすぎなくてもいいのです。イエスさまはある時「あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。」(ルカ10:41)みことばを握ります。みことばは恵みと将来を開く扉の鍵です。イエスさまの思いは、私の考えを超えて、いつでも最善のことを与え、守ってくれるのです。


・愛されていることをただ信じる
フランスの物理学者でクリスチャンであるブレーズ・パスカルという人は、「人間は神のかたちに造られた、と聖書は語っていますが、それは神を求める存在という意味もあり、人は神によってでしか満たされない心の空洞が心にある」と語りました。それは、神さまの愛です。私たちは、神さまの愛を拠り所として生きる時に、必要なこと、大切なことを選ぶ本当の自由が与えられます。愛で満たされた生きることが、すべての悩みを克服していきます。


・神さまの視点で見てみる
自分自身に固執する歩みは、生きづらく不自由な面があるのです。自分で自分を見ると小さい存在だと見てしまいます。この問題は絶望だと自分の人生を決めつけます。あの課題は、最悪になってしまうのではないかと心配します。それは、ある時は正しいかもしれませんが、多くの場合は、間違ったことを信じ、不必要なことまで抱え込み、生きにくくさせてしまうのです。様々なものを見る視点を変えてみます。「イエスさまならどう見るだろうか」と思い巡らしてみます。「イエスさまならどう考えるだろうか」とその時々に立ち止まって祈ります。その時、新しいものの見方で歩む知恵が心を満たすのです。


私の考えよりもはるかに良いことを、私の思いよりもはるかに最善となることをしてくださる神さまが今日も一緒です。


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8月31日 試練の中にある人へ

おはようございます。
愛し、愛されための今日の日です。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 10章13節
『あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神さまは真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。』


「神さまは、耐えられないような試練に遭わせることはない」というのは聖書の有名な言葉です。歌手のYoshikiさんや、競泳女子日本代表で白血病を患った池江璃花子選手、フィギアスケートの羽生結弦選手がテレビやインタビュー等で語っていることが話題になりました。


試練という言葉は、聖書が書かれたギリシャ語でみると「誘惑、試み」という意味があります。苦しいことや、絶望的な状況だけを試練と呼ぶのではなく、試練と思える出来事によって神さまの恵みが見えなくなる事が私たちにとっての大きな悩みとなってしまうのです。愛が冷め、希望を諦め、神さまがどのような中にあっても、共にいてくださることを見ないようにされる誘惑、試みがあるのです。


試練の意味
試練は、決して私たちを悩ますために起きるのではありません。もちろん、痛み、葛藤、深い悲しみ・・かつて経験したことのないような出来事に打ちのめされるような気持ちになります。試練は、私たちをイエスさまの十字架に近づけさせるのです。傷ついたイエスさまは、私たちの痛みも悲しみも理解できないお方ではありません。深く、豊かに私たちを慰めてくださるのです。その時、試練を通して、十字架のイエスさまと一つになります。十字架のイエスさまと一つになる時に、復活のイエスさまとも一つとなり、試練の先にあるとても大きな神さまの奇跡と力の業を見るようになります。
「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)


試練と共に逃れる道

試練の時の逃れる道は、現実逃避する場所ではありません。逃れる道という言葉は、別の道、新しい歩み、行き止まりはなく、神さまの希望の道は開かれていることを意味してます。私たちは、今日まで守られ、人生の道を歩いてきました。うまく事柄が進んだことも、また計画を変更しなければならないこともありました。時に、試練という行き詰まり、行き止まりの道のように感じてしまうことがあります。イエスさまは、死の先にも命の道を開いてくださった方です。悲しみの先にも深い喜びの道を開いてくださいました。行き詰まりは、曲がり角であって、また新しい道は、開かれ続けるのです。


恵みの座への招き
試練は、人生を見つめ直す時にもなります。がんばって、誠実に、一生懸命歩いてきました。それでも、もう自分の力では、知恵ではどうすることもできない場所に立たされるのです。でも、失望しないでください。心配で心を覆い尽くすことをしないでください。試練は、わたしたちをイエスさまの恵みの座へと招くのです。
「大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯さなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:15−16)


試練を通りすぎた人にだけ分かる、神さまと私の秘められた宝が与えられるのです。
 

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8月30日 神さまに近づくハシゴ

おはようございます。
大切な方へ。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書8章29節
『私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』


以前、教会の聖書の学びで「レクティオ・ディビナ」という聖書の読み方を紹介しました。「聖なる読書」と言う意味があり、ゆっくりと聖書のみことばを祈るようにして読みます。みことばを通して、神さまに出会うことを意識します。


4つの段階があります。Lectio(読む)、Meditatio(黙想する)、Oratio(祈る)、Contemplatio(観想する)一つ一つを意識することによって、神さまに近くハシゴを一段ずつのぼるようにイメージすることができ、みことばをとおして、神さまに出会う恵みを体験します。


Lectio(読む)
読むことは、解釈をしたり、理解しようとして一生懸命意識を働かせることではありません。「みことばに触れる」ようにして読みます。違和感もあるでしょう。難しい表現もあります。そのまま触れ続けます。「私をお遣わしなった方・・」(ヨハネ8:29)神さまの方から恵みがやってきます。みことばの豊かさは、触れている時、私たちの理解を超えて、神さまの方から喜びの種をそっと心に植えてくださるのです。やがて喜びの実が結ばれます。


Meditatio(黙想する)
私たちの社会はスピードが求められています。より良く効率的に前へ進むような仕組みができています。しかし、立ち止まることで、今ある恵みを感謝することができます。静まることで心配は小さくなります。留まることで、共にいてくださるイエスさまの温もりを感じるようになります。より深く人生を見つめ、「私と共に」いてくださる方を豊かに知るのです。


Oratio(祈る)
祈りの言葉は、私たちの中から出てくるものではなくて、神さまから与えられるものです。「私が祈る」のではなく「祈らされる」ことがあるのです。神さまが私たちに祈りを与えようとする目的があります。人間の業、この世の力を超えたところにある神さまの御業を見るためです。「私は独り・・」ではなく、神さまとの共同の人生を歩いていて、一つひとつの祈りを聞き、良き願いを実現させてくださるのです。


Contemplation(観想)
祈りは、生き方を変えます。みことばに触れる時に、私たちの内側に神さまの愛、力が宿り、何が大切で、私は今日何をするべきかを知るようになります。「御心を行う・・」ように、自然と導かれていくのです。愛を分かち合うことで心が満たされるようになります。みことばに触れることが最も大きな安らぎとなります。礼拝が生きる力となります。そのように導かれる人生は、人間の幸いな道につながっているのです。


今日、静まり、みことに触れ、心も体も魂も恵まれていますようにお祈りします。


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