海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

7月23日 私の心は燃えている

おはようございます。
雨の日ですね、心には神さまの恵みの太陽が輝きますように。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書24章30、31節
『イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。』


クリスマスの時に教会に飾られるお花で「ポインセチア」があります。赤いポインセチア花言葉は「私の心は燃えている」という意味があるようです。ポインセチアはメキシコを原産としていました。メキシコでは聖夜という意味の「ノーチェ・ブエナ」と呼ばれているそうです。


メキシコにはポインセチアにちなんだ素敵なお話があります。昔、ぺピタという貧しくも優しい少女がいました。ある日、彼女は従妹のペドロと一緒に教会に祈りを奉げに行きました。貧しい彼女は神さまへの贈り物がない事をひどく悲しみました。ペドロは彼女に真実の愛を神さまに奉げ祈る事が、どんな高価な贈り物より大事だと教えました。


しかし、気が収まらない彼女は道端の花でブーケを作りました。みすぼらしいように見えるブーケを見た彼女は情けなくなり、涙が止まらなくなりました。


ペドロの言葉を思い出しキリストの十字架の前に置くと、そのみすぼらしいと思っていた花束が光に照らされて美しい赤い花であったことに気がつきました。それがこのポインセチアであったと言われています。


これは、童話のようなお話かもしれません。神さまの前に捧げられたお花が赤く輝き、美しい姿であることを知ったのです。それは、神さまの前にいる私たちの姿でもあります。


今日のみことばに登場する二人の人は、意気消沈していました。イエスさまが十字架で死んでしまったからです。夢も希望も失われてしまったかのようでした。エルサレムからエマオへと重たい気持ちを抱えて歩いています。イエスさまは、その二人に近づき、聖書のみことばを語り伝えました。そして、イエスさまの出会いを通して、のちに「私の心は燃えていた」とその時の心の変化を告白したのです。


わたしたちは、今日どのような道を歩いているでしょうか。恐れと不安の道み、失望と悲しみの道、イエスさまは私たちのそば近くにともに歩いてくださっています。イエスさまの姿をすぐに見たり知ったりできなくても大丈夫です。共に今日を歩き続けます。神さまの愛によって私たちの心は燃えていくのです。どのようにしてでしょうか。


1、目が遮られてしまう時、耳が開かれます
苦しみや痛みは、本当に大切なことを見失わせてしまうことがあります。私たちの心は、良い方へと思いを高くしていくよりも、悪い方、最悪なことへと思いを低くしてしまうことがあります。目が遮られてしまう時、神さまは耳を開いてくださるのです。みことばを心に語りつづけてくださるのです。その人の内には、希望の命が心に宿り、やがて、喜びの心になっていくのです。見えることで失望することがあっても、耳をすませば、みことばが聞こえてくるのです。


2、目が開かれる時、信仰の世界が見えます
耳が開かれると、新しい視点で世界を見えるようになります。目も開かれ、神さまが大きな愛をもって今日を守っていてくださることを知るようになります。神さまにとって私はむなしい存在ではありません。宝のような尊い存在なのです。苦しみと悲しみの人として生きる人生から、神さまの恵みと愛の中で生かされていることを豊かに知るようになります。


3、心が燃えている時、私の本当の姿を知ります

そのままの私の姿、苦しみを抱えていても、悲しみの中に生きていても、それでいいのです。イエスさまは、一人ひとりを招いています。一つのお花がイエスさまの前に飾られた時に、光に照らされて輝いた姿になったように、心の内に神さまの愛が輝くのです。宝を土の器に納めています。苦難を受けることがありますが、行き詰まらることはありません。神さまがいつでも道を開いてくださるからです。途方に暮れても失望しません。失望は希望を生み出すことを知っているからです。倒されても滅びません。イエスさまが立ち上がらせてくださるからです。宝が輝き、私の心は燃えているのです。


あなたのうちに輝くこの光はこの世の希望です。

 

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7月22日 神さまの家の子育て

おはようございます。
神さまと一緒に歩く幸せな日でありますように。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙3章6節
『キリストは御子として神の家を忠実に治められます。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるなら、わたしたちこそ神の家なのです。』


ある家に行きました時に、リビングの壁に「7つの家族の約束(ファミリールール)」というものが飾られていました。とても心温まる約束です。
1、どうぞ、ありがとうを言おう Say please & Thank you
2、いつも、本当のことを語ろう  Always tell the truth
3、約束を守ろう Keep your promise
4、大きな目標を! Dream big!
5、優しい言葉を使おう Use kind words
6、仲直りにはハグをしよう Let’s hug to reconciliation
7、お互いを尊敬しよう Respect each other


社会や世の中という大きな枠組みで自分の存在を見ると、とてもちっぽけで、生きることの意味を見い出せない時もあります。でも家という小さな愛のある関係の中で、人は力と安らぎと喜びを知ることができます。神さまとの関係は、まるで家族のようにして共に生きることなのです。


神さまは、私たちを神の家に招待してくださっています。招待するだけではありません。私たちを神の子にしてくださっているのです。神さまにとって私たちは、他人でも、見知らぬ人でもありません。神さまの家の家族の一員なのです。


神さまの家にもファミリールール(家族の約束)があります。それは、私たちがどれほど愛されていかを知ることができて、複雑な社会の中でも力強く歩いていくことができる神さまの祝福の約束です。


慈愛に満ちている方が私たちの目をじっと見て、いつでも優しく語ってくださるのです。
「確信と希望に満ちた誇りを持ち続けよう」と。


1、確信を持ち続けよう
確信は、神さまを信頼することです。私たちを愛してくださる方は、必ず守っていてくださいます。私たちは恐れの中にいても、迷いの中にいても、戦いの中にあっても、弱さの中にっても、必要な力は与えられます。「彼らがわたしに陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても、わたしには確信がある。」(詩篇27:3)という信頼があれば、もう恐れたり悔やんだりしなくていいのです。そして、「わたしは確信しています・・神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38)災いの日にも、恐れの時にも神さまの愛の中に包んでいてくれるのです。


2、希望を持ち続けよう
希望は、苦難と思える中から生まれます。諦めたくなることから祈りが生まれ、絶望と思えるところから信仰が生まれます。良いものは、暗闇のトンネルを通り、練られて輝き、揺るがないものになるのです。希望は、私たちの人生を豊かな喜びで満たすものです。どんなに大変な中にあっても、この希望を持ち続けるなからば、海の中にも道は開かれ、試練の中にも逃れの道は用意されるのです。「災いの計画ではなくて、将来と希望を与える計画」(エレミヤ29:11)であることを知り、「この希望が失望に終わることはありません。」(ローマ5:5)という約束を手にしているのです。


3、誇りを持ち続けよう
目に見える良いことを誇りとしてもそれは形を変えてしまうことがであるでしょう。弱さを誇る時、自分のそのままの姿を誇りと思う時、神さまの力強さが見事にあらわされます。たくさんのお祈りの課題を抱えることがあります。自分にとって試練となること、思い通りにならないことがあります。それでも「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全にあらわれるのだ・・大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう・・私は、弱い時にこそ強いからです。」(第二コリント12:9−10)強さは誇れなくても、弱さなら今日神さまにあって誇ることができます。その中に神さまは力強く働いてくださるのです。


神さまの家の子として今日歩みましょう。安心して、委ねて、すべてから守られますように。
 

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7月21日 天使が舞い降りる時

おはようございます。
神さまの栄光は全地に満ちています。


☆今日の御言葉 詩篇91編11節
『主はその使いたちに命じて、あなたのすべての道を守られる。彼らはあなたを両手で支え、足が石に当たらないようにする。』


エンジェル(天使)のロゴマークで有名な森永製菓という会社があります。森永製菓の創業者、森永太一郎さんはクリスチャンで、祈りを込めてこのロゴマークをデザインされたそうです。森永太一郎さんは、24歳で陶器を売るために渡米した時に、公園で子どもが捨てたミルクキャラメルの包み紙を拾います。そこから人生が変えられました。このキャラメルを日本でも売りたいと思い、クリスチャン夫婦のもとで製菓技術を学ぶようになりました。


一枚の包み紙がその人生の方向性を変えました。神さまは、今も生きおられるお方です。私たちに慰めを、守りを、人生の方向性を示すために、天の使いに命じてどのような道にあっても助けようとしてくださっているのです。


聖書を見ると、天使(御使い)が舞い降りる時がありました。その時「あなたのすべての道を守られる」という約束の言葉を実際の生活の中で経験するのです。


私たちはどのような道を今日歩いているでしょうか。その中でどのように守られるのでしょうか。


・嫉妬心や憎しみや高慢から守られる
否定的な感情の動きは、心の痛み、忙しさや心配を詰め込み、混乱していることから生じます。決して、人間性や性格に関係していることではありません。シンプルにすることで、神さまにすべてを委ねることで、あらゆる混乱や人間関係の歪みから守られます。ただ一つことを静まり思い巡らします。・・「神さまにとってわたしは、喜びの存在です。愛されていて、祝福されています。天の使いは、いつでも神さまの愛のみことばを語りかけていてくださっています。「恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザヤ書43:1)


・仕事上の道で守られる
神さまは、今日の歩みの中で必要な知恵、力を与えてくださいます。迷う時、自分の力ではどうすることもできないと思う時、神さまの助けは豊かに与えられます。成果や積み上げた功績、目に見える結果だけがすべてではありません。忠実であること、できることで精一杯イエスさまに仕えるように生きること、明日のことを思い煩うことから自由になる時、自分の手の業を祝福してくださる天の使いの励ましを感じるのです。「明日のことを思い煩ってはならない。明日ことは明日自らが思い煩う。その日の労苦は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)


・人づきあいの道で守られる。
人と人が出会う時、良いこともありますが、試練となること、重荷となることがあります。神さまはどのように私たちを守ってくださるのでしょうか。神の国は、「あなたがたの中にある」(ルカ17:21)とイエスさまは語られました。人と人が出会う時、生身の人間同士、互いに違う人間同士が、真正面から向き合えば互いに傷つくことがあります。神の国には平和と愛があります。わたしの中の神の国を全面に出します。そうすると不思議なことに他の人の神の国も見るようになるのです。


・犠牲や苦しみの道でも守られる
苦しみや労苦の中にある時、その人に助けが必要なことを神さまはよく知っていてくださっています。そして、労苦は決して無駄にならないこと(第一コリント15:58)、助けは天地をつくられた主のもとから来ること(詩篇121:1)を実際の歩みの中で経験させてくださるのです。私たちは、決して一人ではありません。涙の時、自分の力が尽きてしまうような時、神さまが使いを遣わし守ってくださることを知るのです。


今日は、神さまが両手で支えて、苦しみの道で足が石に当たらないように守ってくださっています。

 

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7月20日 神さまとつながる光回線

おはようございます。
自由と喜びと愛は、誰にも奪うことができません。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書17章23節
『私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしなったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。』


今は、インターネットでいろいろなことができる時代です。ワイヤレスのネットワークがあれば、離れていてもすぐに人とつながり、あらゆる情報にアクセスすることができます。人と人との距離が非常に近くなりました。何かを知りたいと思えば、すぐに知識を得ることができます。


宗教のもともとの意味は、ラテン語の「religioー結びつける」という言葉からきています。良い行いや、正しい人間になること以上に、神さまと私たちが深く、そして豊かに結ばれるのです。そこに人の幸せ、喜び、平安があります。


聖書をみると、神さまと人とのつながりについての意味をより深く知ることができます。神の国のネットワークは、世界が誕生した時から構築されていました。


「光あれ」(創世記1章1節)と神さまは、光回線をつなげてくださったのです。人は、その光回線よりも、自分の知恵で何でもすることを選びました。善悪の知識の木の実を食べてから、神さまと人との回線がつながりにくくなりました。「神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか」(創世記1章9節)、この不具合は突然おこりました。そして、修復することもなく、人間はそのまま歩き出しました。

 

神さまは、ある人に光回線をつなげました。アブラハムに、モーセに、ダビデに、イザヤやエレミヤに・・、もう一度神さまにつながって力を得るように、癒しを得るように、大きな祝福を得るようにと招かれました。それでも人々は光の神さまにつながることを拒み続けるのです。


神さまは、人間との関係を修復し、改善(和解)するためにキリストの十字架をこの地に立てました。

だれでも、この十字架に近づくならば救われます。だれでも、神さまの愛ともう一度つながることができます。
あらゆる知恵、あらゆる恵み、あらゆる祝福に即時にアクセスできます。


今日のみことば「私が彼らの内におり・・。完全に一つになるためです。」イエスさまが私たちのうちに今日共にいてくださるのです。心に赦しの十字架、愛と救いの十字架を立ててくださったのです。


私たちのうちに神さまと私たちを結びつける十字架(光回線基地局)があるのです。そこからあらゆる人々が神さまとつながるようになります。私たちが神さまとつながればつながるほど、周りにいる人たちは、神さまの祝福、恵み、救いを知るようになります。


今日は神さまからの光が強く届いています。ここにつながりましょう。
きっと素晴らしい出来事を経験することでしょう。
 

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7月19日 かくれんぼうと聖書

おはようございます。
恵みの日、安らぎの日でありますように。


☆今日の御言葉 コロサイの信徒への手紙3章4節
『あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。』


夕方になると家の近所で子どもたちの遊ぶ声がします。「もういいかい〜」「まだだよー」「もういいかい〜」「もういいよ」と呼びかけています。少し時間がたつと「みつけたあー」と元気な声が聞こえます。そして、笑い声が響くのです。


神さまはわたしたちにいつでも愛をもって呼びかけくださっています。神さまの方から近づき私たちを見つけだしてくださるのです。私たちが神さまを探さなくていけないのではありません。神さまが私たちを探してくださるのです。

 

「もういいかい〜」それは、イエスさまの招きの言葉であり、愛の呼びかけの言葉です。わたしたちは時に、かくれんぼうをしているわけではありませんが、寂しさの場所、自分を責めてしまうこと、孤独と不安のところに隠れるようにして過ごすことがあるかもしれません。みことばは、神さまの声です。優しく、強く、耳をすませば聞こえます。


今、自分のいるところの孤独だけを見つめないでください。周りが暗闇に覆われて、何もよいことが見えなくてもそのことで自分を責めないでください。その暗闇の静けさだからこそ聞こえてくる声があるのです。

 

さあ、暗闇から出ましょう。イエスさまの招きの言葉が、私たちを光のあるところへと手を引いてくださるのです。「命であるキリストが現れるとき、キリスト共に栄光に包まれるでしょう。」


エスさまが現れるとき、どのような栄光に包まれるのでしょうか


・心の窓を開け
自分の心の中は狭い空間です。自分の考え、人の思い、そのような壁に囲まれた小さな部屋です。その中で良いものを見いだせるかどうかと一生懸命です。狭い思い、今までの経験という枠組みの中に今があります。心の家の窓を開きましょう。イエスさまの声が聞こえてきます。私たちを抱き上げて、神さまの御手に抱いてくださいます。広い祝福の世界、神さまの愛の満ちているところに生かされているのです。


・心の目が開かれ
たくさんの痛みがあります。恐れの嵐が吹いています。どこにも希望が見えないと思うような現実があるかもしれません。神の国は、現されています。どこにあるのでしょうか。静まり、立ち止まる時に見えてきます。「心の目を開いてください」と祈ります。現実ことだけで心をいっぱにしません。心の目が開かれると、神さまわたしたちの周りに小さくもあり大きな恵み、豊かな配慮をしてくださっていることを知ります。感謝と思うことをたくさん見つけることが生きる喜びなのです。


・命の祝福に生きる
私たちの究極の恐れは、死であるかもしれません。死は、私たちの人生を暗闇に閉じ込めてしまうものと思うかもしれません。この闇の力は、私たちの力ではどうすることもできません。打ち勝つことができない現実が最後に待っているのです。イエスさまはその暗闇の支配から祝福の命へと救うために今日、私たちに近づかれるのです。自分の手にある功績や勝利ではなくて、神さまが私たちに勝利を与えてくださることを思う時、真の安らぎが訪れるのです。


「もういいよー(見つけに来てください)」と神さまに呼びかけましょう。
それは「わたしを今日栄光に包んでいてください」という祈りなのです。


共に神さまを礼拝しましょう。

 

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7月18日 家を神さまの愛で満たす方法

おはようございます。
神さまの一番のよろこびはあなたの存在です。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書12章3節
『その時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りでいっぱいになった。』


私たちの今日の日は、どのような日になるでしょうか。ある人は病の中におかれ、ある人は喜びに満たされています。ある人はうなだれ、ある人は傷ついてます。現実はすぐに変えることができなくても、今の瞬間、神さまの愛が風のように吹いてきてその場所を満たすことがあります。


エスさまは十字架の道に歩み、暗い現実、人々の悪意や嘲りの中にいました。深い暗闇の霧が立ち込めているようでした。しかしベタニアという町のある人の家には、愛が満ち溢れていたのです。


この家には神の国の静けさ、神さまの愛の満ち満ちた喜びが広がりました。現実の暗闇の支配にも負けないほどの、天の栄光と喜びで満ちていました。愛があり、喜びがあり、祝福がありました。


今日、私たちの生活にも神さまの愛の豊かさを経験することができます。大きな神の国の平安が私たちの今いる場所に、そして周りに、神さまにある喜びが川の流れのようになって広がっていくのです。


家(生活の場)を神さまの愛で満たす方法


1、価値観を少し変えてみる
私たちの価値観はそれぞれ違います。その価値というのは、何を大切にしているか、ということに関係しています。どんなに正しいことであっても、時には人や人生を狭く限定的な思いで見てしまうことがあります。狭い価値観は、周りにいる人の生きる喜びを奪ってしまうのです。


マリアは純粋で非常に高価な香油を手にしました。この価値は豊かで、富をもたらすものです。ずっと手の中においておきたいものです。マリアは、自分の手の中にあるものをイエスさまにささげました。委ねました。思いも心も自分自身の中にあるすべてを握りしめることから自由になる時、神さまの愛がその場所に豊かに動くようになります。


2、礼拝する心
マリヤは、イエスさまの足もとに行きました。そこには、神さまを礼拝する心、仕える思いがありました。仕える心は、決して我慢や、義務ではありません。自由で心が神さまの愛で満たされるのです。イエスさまの足もとにいるように過ごします。決して何かを動かそうとせず、委ね、周りにいる人たちを愛します。


3、祝福を信じる
家は、香油の香りでいっぱいになった・・。その香りはそこにいる人たちに安らぎを与えたことでしょう。癒しの雰囲気、何事も慌ただしく動いていない静けさ、イエスさまの愛のほほえみが光のように輝いている場所になりました。祝福を信じる心のそばに、心地の良い雰囲気が生まれます。「あなたがそのままでいることが素晴らしいと」と思う人の周りに愛が満ち溢れます。家族の一人ひとりが祝福されます。神さまの愛の御手の中で守られます。


祝福を祈る場所には、聖霊の風が吹いているのです。


今日は祝福を信じて歩みましょう。

 

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7月17日 たとえそうでも喜びます

おはようございます。
思わず笑顔になるような出来事が今日ありますように。


☆今日の御言葉 フィリピの信徒への手紙2章17節
『たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、私が供え物として注がれるころになったとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。』


ニューヨーク大学医療センターのリハビリテーション研究所の壁に「苦難の中にある者たちの告白」という詩が掲げられています。


「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるように健康を求めたのにより良きことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。・・私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」(一部抜粋)


この詩を書いた人は、苦難と思える人生を歩みました。願いはたくさんありました。それがどんなにより良い目標であっても、思うようには実現しませんでした。力を求めても弱さがあり、健康を求めても病弱がありました。不幸と思えるようなことをたくさん経験したのでしょう。どんなに大きな悲しみであったでしょうか。


フィリピの信徒の手紙を書いたパウロもとても苦労をした人です。
思い通りにならない現実を経験しました。労苦は報われませんでした。


しかしパウロは、いつでも、恵みの世界が開かれる扉の鍵をもっていました。この鍵を使うと、不幸と思えることが幸福となり、不満足となることが豊かな心の平安となり、自分の思い通りにならなくても、それ以上にその生涯に豊かな深い喜びを与えてくださる神さまを経験することができるのです。


私たちの生涯を恵みで満たすキーワードは、それは「たとえそうでも喜びます!」です。


行き詰まり、八方塞がりの現実かもしれません。何かを恐れていたり、こうなったらどうしようと神さまにお祈りしながらも後ろ向きな気持ちになっているかもしれません。それは、もうそうなったら・・嫌だと考えると強い拒絶感が心の負担とストレスになっているからです。


もしそうなったら・・最悪な状況になるのではなくて、そこにこそ神さまの深い恵みは現されます。大逆転と思える出来事が起こります。


たとえ・・弱さが与えられても、病弱になることがあっても・・・(深く祈りの深呼吸をしながら)・・喜びます。


ここから新しい神さまが生きて働く恵みの世界が開かれていくのです。

 

今日は、「たとえそうでも喜びます!」で行きましょう。
力強さ、平安、信仰の喜びを経験することができます。

 

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