海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

6月20日 神さまは直線を描かない

おはようございます。
みことばは、今日の歩みを照らすともしびです。


☆今日の御言葉 出エジプト記13章21、22節
『主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の前を離れることはなかった。』


人生が思い通りにいかないと思ったことはありますか。遠回りをさせられているような挫折や、苦労を経験したことがありますか。神さまは、私たちの人生の道をまっすぐに線を描くように導いてくれないことがあります。


モーセに率いられたイスラエルの民は、約束の地カナンを目指します。エジプトからカナンへの旅のルートは、幾つかありました。直線を描くような最短ルート、少しだけ曲がりくねった危険回避ルート・・。モーセイスラエルの民は、一番の遠回りと思える40年の最長ルートに導かれました。


私たちの人生は、効率を求めること、目的を早く達成することに価値が置かれています。直線を描くように、目的達成のための最短ルートをいつも考えています。思考をフル回転させて、慌ただしく歩いてしまうことがあります。

 

神さまは、実にゆっくりです。でもとても確実で、恵みが溢れいています。遠回りの道のように思えても、そこには実に深い神さまの恵みの出来事が現されるのです。悲しみ、うつむき、挫折するような道の中にあっても、神さまの慰めはより深く、神さまの支えはより強く、私たちの人生を守っています。


イスラエルの民は、急がず、慌てず、ただ雲の柱、火の柱の中を歩みました。


・雲の中の1日を体験しましょう。
雲ひとつない快晴の時もありますが、1日の中で空を見上げるならば、必ずどこかに雲が見えます。旧約聖書で雲は、神さまの大きな愛の中に包まれていることを現すものでした。雲がいつもともにあったように、いつでも神さまの愛とみことばは近くにあります。


小さなことでも、「今、何をしましょうか」誰かに対しても「何を語りましょうか」と祈りながら、聞きながら、神さまがすぐ側に立っているかのように、愛に包まれて歩くことができるのです。わたしは、雲の中の1日を実践することがあります。仕事でも、誰かと会っている時にも、買い物や休息の時間にも、神さまに耳を傾けていると、「これをしてみたら?」・・と神さまに優しく語られたり、1日の優先順位を考えている時にも「これは大切だよ」・・と教えてくれたり、誰かと会う時にも「この人にはこう話してみたら?」・・と知恵が与えられたり、お買い物の時にも、休息の時間にも、神さまがそばにいてくださることを感じるのです。
雲の中の1日は、本当に幸せで、結果的に一番良いことが起こるのです。


・火の柱の原材料
暗いと不平を言いたくなることあります。心には恐れや怒り、不満足や不平の闇に覆われてしまうことがあります。聖書の中で火は、聖霊の力をあらわすものです。この火は、よく燃えます。薪を集めるように、自分自身の恐れ、不安、痛みを神さまに委ねましょう。


乾いた枯れ木がよく燃えるように、わたしたちの内側にある否定的な思いは、私たちの心にずっと置いておくと、空しさに変わって心を荒れ果てた状態にしてしまいます。喜びは失われ、気力は低下してしまうのです。でも、その枯れ木は燃やせば、聖霊の炎に変わります。弱さが強さになり、悲しみは神さまを讃える賛美となり、不満足はより深い信仰の祈りとなっていくのです。


雲の柱がひとつひとつ助け導いてくださいます。
火の柱が神さまを信じる思いを熱くしてくださいます。
 

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6月19日 苦しみは通過点、喜びは到達点

おはようございます。
雨の日ですね。心には、神さまの恵みの雨が注がれますように。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書16章22節
『あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。』


苦しみの時、イエスさまは近くに寄り添ってくださっています。誰にも理解されない心の痛みにも慰めはそば近くにあります。イエスさまは、十字架につけられる前に、死に向かう中で、人々に最後のメッセージを語りました。


今は苦しみがある・・しかし、その苦しみを通った先に、喜びが待っています。今まで味わったことのない喜び、この世で経験したものではない喜び、誰にも奪われない喜びがあるのです。


苦しみや悲しみは、人生の終着点ではありません。私たちの人生の行き着く場所ではありません。通過点であり、その道を通り過ぎ、やがて優しいイエスさまに出会います。


十字架を経験されたイエスさまです。すべての悲しみを知っていてくださっています。どんな困難な道にも共にいてくださっています。慰めは天からやってきます。生きる希望はみことばからいつでも備えられます。


「喜び」と聞くと、幸福感や楽しい気分、溢れるほどの歓喜の気持ちなどをイメージすると思いますが、それ以上のものです。感情的、感覚的な何かよりも深淵なもの、言葉で表現することが難しいのですが、信仰に通じるもの、平安の中にある落ち着いた喜び、すべてを受けとめている平安、イエスさまの死と復活に現された力、信仰に深く根ざした自信に満ちた喜びです。


今日、この喜びを体験してみましょう。


・喜びの土台となるものは、救いの希望です
私たちの安心の拠り所は、自分自身の力や功績ではありません。それらも価値があり必要なものですが、喜びの土台とはなりません。救いは、イエスさまによって与えられたものです。そのままのわたしを十字架の愛でゆるし、どのような場所にいても「共にいてくださる」安心の拠り所です。たとえ、神さまの愛から離れることがあっても、救いの土台は揺らぐことがありません。


・喜びを建て上げるのは、祈りです。
私の心は祈りで守られます。たくさんの恐れの風が吹いてきます。傷つける言葉が飛んできます。失望をもたらす状況を目のあたりにします。いつでも、どんな時にでも「神さま・・」と呼びかける時に、私の心を聖なる神さまの愛が包み込むのです。もし、土台がしっかりしても、雨ざらし、恐れの風のふくままでは、安心できません。祈りで自分の心を守るときに、私たちの存在の深いところに喜びと平安が宿るのです。


・喜びの内側にあるものは、祝福と信仰です
土台も据えられ、外側もしっかりと建てられました。そして、重要ななのは、内部です。喜びが豊かに育てられるのは、祝福と信仰です。いつでも、祝福を求めます。もし、わたしたちがどのような環境や状況でも、神さまが守り祝福してくださると知るならば、喜びの中に今日を歩むことができるのです。


この喜びは、人生の最後の時にまで唯一残される、神さまが与えてくださる宝物です。

 

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6月18日 名付けの神さま

おはようございます。
心の慰めは、みことばの中にあります。


☆今日の御言葉 イザヤ書43章7節
『私の名で呼ばれるすべての者、私の栄光のために創造し、形づくり、私が造り上げた者。』


私の本当の姿は、とても美しく、安らかで、愛の豊かな満たしの中にあります。心の深いところに神さまの愛の種が宿り、豊かに人生を祝福で満たそうとしています。豊かな愛の安らぎ、充実、喜びが泉のように湧き出ています。ゆっくりと自分の内にある平安を見つめる時に、恐れの嵐は静かになります。


神さまは、今日の私をそのままで愛し、慈しみ、赦し、支えてくださっています。もし、恐れの中にあっても、過去の痛み、将来の不安を抱えることがあっても、私たちの存在の根底に神さまにある喜びの泉を見つめるならば、溢れるほどの感謝をもって今日を歩むことができます。


その喜びの泉を見つけてみましょう。神さまの愛がどのように語られているでしょうか。


・私の名で呼ばれる者
神さまは、ある時、人々に名前をつけました。それはもともとあった名前とは違うものです。神さまが名前をつけてくださる時に、その人生が変えられて、名前が意味するような日々を歩むようになりました。


旧約聖書に出てくるアブラハムは、もともと「アブラム」という名前でした。神さまは、ある時、「アブラハム」と名付けたのです。アブラムは、「父」という意味がありますが、アブラハムは「多くの国民の父」という名です。それは、たくさんの人に祝福を与える人という意味です。アブラハムは祝福の源となって、多くの人の人生に希望を与えたのです。


ヤコブという人は、「イスラエル」という名前になりました。それは、「神さまが勝利してくださる」という意味があります。自分で戦い格闘する人生から、もっと豊かな神さまの勝利の中に守られる人生を約束されたのです。


エスさまのお弟子さんの「シモン」はある時から「ケファ」と呼ばれました。ケファは、「岩」という意味です。もともとは弱く不安定さを抱えるシモンでしたが、しっかりとした「岩」となって、神さまの栄光の福音を語る人になりました。


新約聖書に登場する「オネシモ」という人は、逃亡奴隷でした。しかし、パウロのもとで福音にふれて変えられました。生きる勇気と希望を見出しました。「オネシモ」は「役立つ者」という本来の名前の意味を回復したのです。


私たちの人生は、それぞれ固有の名前をもって生きていました。人生の荒波を乗り越え、それぞれの人生を歩いてきました。私たちは、今までも今もそしてこれからも「自分」という名とつきあっていきますが、神さまが名付けてくださる、新しい名で日々を歩みます。


神さまは恵みによって、本当のわたしの姿を知っていてくださっています。


祝福の名で呼びかけてくださいます。あなたは祝福の人です。


神さまがすべてを守り勝利してくださる約束の名がつけられています。
あなたは勝利の人です。


神さまは、岩のような固い愛で守っってくれます。
あなたは揺るがない祈りの人です。


役立つ者として、神さまが与えてくださる喜びと愛がいつでも一緒です。


この名前のように人生は祝福されていきます。


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6月17日 涙の真実

おはようございます。
「光あれ!」と神さまの言葉が届いています。


☆今日の御言葉 詩篇126編5−6節
『涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も、種の束を背負い、喜びの歌と共に帰ってくる。』


神さまの真実に触れる時に、人は涙を流します。涙は、悲しみを洗い流し、新しい神さまの恵みを体験する機会ともなります。人生には、種の袋を背負う苦労があります。疲れや不安、むなしさや痛みを感じて涙を流します。その祈りの涙はやがて、収穫の種の束を背負う、喜びの歌声となるのです。祈りは聞かれ、労苦は報われるのです。


聖書に登場する多くの人たちも涙を流しました。
涙を通して、神さまの恵みを体験しました。


・ヒゼキヤの涙
「ヒゼキヤは涙を流し激しく泣いた。」(列王記下20:3)→「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、わたしはあなたを癒そう。」(列王記20:4)
ヒゼキヤは病の中で、涙の祈りをしました。祈りは天に届けられます。一番よい導きをしてくださる神さまを知りました。人が流す涙を通して、神さまの熱意のあるみことばを聞くことに導かれていきます。


エズラの涙
エズラが神殿の前で祈り、泣き伏して罪を告白したとき」(エズラ10:1)→「非常に大きな会衆となった。こうして民は激しく泣いた。」
エズラを心を痛め、涙を流しました。圧倒される罪が心を暗くしていました。その涙は、心に愛と赦しの光を照らすものに変えられました。神さまから引き離される痛みを通して、新しい神さまとの絆が結ばれました。


・ヨブの涙
「私の友は私を嘲るが、私の目は神に向かって涙を流す。」(ヨブ16:20)→「主はその後のヨブを以前に増して祝福した。」(ヨブ42:12)
ヨブは、不幸と思える現実と人間関係の傷によって涙を流しました。見えるものはすべて暗闇に閉じ込められるようなことを経験しましたが、目には見えないもっと豊かな希望を見つめる人生とさせられました。涙は大きな祝福の出来事に変えられたのです。


・詩人の涙
「私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。」(詩篇56:9)→「神の前、命の光の中を進み行くために。」(詩篇56:14)
詩人は、祈りの中で涙を流しました。押しつぶされそうな痛みを経験する時、人の中に非常に純粋な信仰の祈りが生まれます。この地上で流す涙は、天の皮袋に蓄えられてやがて、恵みの雨となって、私たちの人生を潤す喜びを経験するものにされるのです。


・エレミヤの涙
「主はこう言われる。あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。」矢印「あなたの労苦には報いがあるからだ」(エレミヤ31:16)
エレミヤは、自分自身を見つめ涙を流しました。主の預言者として、りっぱに使命を果たしていましたが、現実は過酷で、人々は主のみことばに耳を傾けないばかりか、ひどい言葉によって中傷を受けていました。神さまに従う中で流す涙があるのです。神さまの手は力強く伸ばされて、「あなたの労苦を知っている。あなたの労苦には報いがある」と呼びかけてくださるのです。


・イエスさまの涙
「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)→「ラザロ、出てきなさい、と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」(ヨハネ11:43)
エスさまは、ラザロの死を悼み、悲しみました。ご自分の命を犠牲して、死では終わらない人生を与えようとされました。死という絶望に閉じ込められない命の道を開いてくださいました。十字架の涙は、わたしたちの救いの涙へと変えられたのです。空しく人生が終わることはもう決してありません。死は命に飲み込まれたのです。


涙は祈りです。
涙がある人生に真実なる神さまが近づいてくださるのです。
 

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6月16日 今日を幸せにする祝福の言葉

おはようございます。
弱さの中に神さまの力強さが現されます。


☆今日の御言葉 第一ペトロ 1章23節
『あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです。』


神さまは私たちをどれほど愛してくださっているでしょうか。親は子どもに良いものを与えたいと願うものです。空しいものを手にして欲しくないのです。悲しみの中で日々過ごして欲しくないのです。喜びをもって、人生の素晴らしさ、生きていることの尊さ、大切な仲間がたくさんいること、どんな時にも助けは与えられ、個性は輝いていて、ひとりひとりの可能性は豊かなものであることを毎日実感してほしいのです。


今日が幸せになる祝福の言葉があります。
朽ちてしまう空しいものを手にすることから、朽ちない愛の種を手にする時に、私たちの人生は生き生きとした命と躍動感に溢れます。
自分の内側に強いエネルギーを感じるようになります。自分の内面を深く見つめながら、神さまの愛のみことばが根を張り、芽を出し、実を結ぶからです。


1、主の園のようにされる
「荒れ野をエデンのように、荒れ地を主の園のようにされる。そこには喜びと楽しみ、感謝と歌声がある」(イザヤ51:3)荒れ野、荒れ地、たくさんの苦労を重ねてきた人生です。痛みも問題も乗り越えてきました。時には喜びよりも心配が、歌声よりも悲しみがあったかもしれません。


みことばが心に撒かれると、麗しい花が咲いている主の園のようになります。ある時は鳥が来て食べてしまっても、ある時は心配に覆われて喜びを見出せなくても、神さまは諦めずに、いつでもどんな時にもわたしたちの心にみことばの命の種を撒き続けてくださるのです。深い神さまへの信頼が根を張り、喜びと楽しみ、感謝と賛美が満ち溢れます。


2、太陽と雨を与え、人生は潤される
「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5:45)私たちの状況を整え、守り支えてくださる神さまが共におられます。


1日の時間は、24時間という時計が示す時にだけ生きているのではありません。神さまの愛の中で時を刻んでいます。日が昇り、神さまの愛の光が全地を照らしています。木々は風に揺らぎ、鳥はさえずに、神さまの栄光をたたえています。雨の時もあります。思い通りにならないこともあります。自分の正しさや自分の弱さに悩む時もあります。一番良いことを与え、最善のことを示し、「神さまがなされることは時にかなって美しい」と思える日々を歩いています。祈りは天に届けられているからです。


3、美味しい祝福の実を味わう
「彼は水のほとりに植えられた木のようになり、川の流れにその根を張り、暑さが来ても恐れず、その葉は茂っている。干ばつの年も恐れず、絶えず実を結ぶ。」(エレミヤ17:8)自分で一生懸命がんばって、人生の幸せの実を結ぶこともできます。誰かとその実を比べたり、競ったりします。自分で結ぶ実はそれなりの充実感があっても、やがて朽ち果てるように、永遠に手の中に置くことはできません。


決して変わることのない神さまのみことばがあります。命の種です。手に取り握りしめ、心にゆっくりと納めます。手を伸ばせば、いつでも神さまは命の種を手にそっと置いてくださるのです。握りしめ、納めます。豊かな水の流れのほとりに植えられた木のようになるでしょう。ゆっくりと実を結びます。そして豊かにその実を味わい、今日を喜びをもって歩むことができるのです。


天においても、地においても、神さまの祝福は満ちています。
 

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6月15日 心のダイヤル調整法

おはようございます。
信じる思いは、すべての恐れから守ってくれます。


☆今日の御言葉 第二テモテ2章13節
『私たちが真実でなくても、この方は常に真実であられる。』


私たちの心の焦点をいつでも真実なる神さまの愛に合わせます。
今、心のダイアルがどこに合っているのか観察してみます。


もし、後悔や不満足、痛みが心を支配していると思っているならば、過去や目に見える事柄だけ焦点が合っている可能性があります。もし、ストレスが押し寄せ、「もし〜だったらどうしよう」と不安を覚えているならば、まだ何も起きていない未来に焦点が合っているのかもしれません。


私たちの周りには様々なことが起きています。人生は動いていてスピードは早く、目で追っていると疲れ果ててしまいます。過去や未来からも、声が聞こえて、「そのままでは愛されていない」とか、「何かをしないと自分に価値はない」と知らず知らずにうちに自分自身を追い詰めてしまいます。


心のダイアルを正しいところに合わせると、私たちの今日の1日に爽やかで心地よい安らぎの風が吹いているのを感じることができます。今を喜び、神さまが共にいる豊かな平安を感じます。


神さまの真実はわたしたちを守っていてくださっています。たとえ、わたしが揺れ動くことがあっても、心定まらず、不安と恐れを見つめてしまって、静かに、愛をもって、イエスさまは近づき、真実の中に留まりなさいと呼びかけてくださっています。


心のダイアルをゆっくり神さまの真実に合わせましょう。


最初は、雑音がたくさん聞こえるでしょう。わたしをいつも恐れさせる言葉が心にあるからです。過去の傷がまだ痛み、心に雑音を響かせています。未来を憂いてしまう心配が、エアコンの機械音のようにずっと聞こえているのです。心は騒ぎ、不快感があるかもしれません。その雑音もよく聞いてみます。「今考えなくていいこと」、「そこまで心配しなくていいこと」、自分の心を観察します。そして、それを聞き流す音のように、部屋を換気するように空気を入れ替え、今必要なこと以外は心に留めることをしません。


みことばに聞き続けます。私たちに約束されている永遠の祝福を祈り求めていきます。
やがて、私たちの心がぴったりと神さまの真実に合うように助けてくださいます。

 

心のダイアルが神さまの真実に合う瞬間があります。その時あることを経験します。


深い平安に包まれます。目に見える現実は変わらなくても、恐れは心を支配していてないのです。自分の内から聞こえる声も、みことばで上書きされます。神さまの愛が心に満ち溢れます。今生きていることは本当にすばらしいことだとわかります。まだ解決されていない問題も抱えています、それでも心を痛めていません。真実なる神さまにより頼んでいるからです。


自然と祈りが生まれるでしょう。生活の合間に賛美が心に宿っているでしょう。明日のことは心配していないでしょう。今できることで背一杯自分の賜物を生かしています。人生は退屈な毎日ではなくて、神さまは1日今日できる使命を与えてくださっていることを豊かに知ります。


神さまの真実だけを見つめます。恐れがきた時、その思いに流されることをしません。不満足に支配させることをしません。しっかりと、ゆっくりと神さまの真実を見させてください、祈り求めます。


今、イエスさまが一緒にいてくださることだけが、どの時間帯にも、どの瞬間にも、川のように流れているのです。豊かな泉のように、人生を潤す命の水のように、私たちを元気するものです。周りに生きる人たちに祝福と平和を与えるものになります。


今日は、恵みの日、祝福の日です。

 

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6月14日 神さまの実印

おはようございます。
喜び楽しむ日でありますように。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第二 1章21−22節
『私たちとあなたがたとをキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として私たちの心に霊を与えてくださいました。』


神さまが大きな契約をしようとしています。ついに決断しました。その手には、実印が握られています。神さまと人との新しい契約です。この契約は永遠に取り消されることはありません。一人ひとりの人生に証印を押してくださったのです。


私たちは神の子になりました。死と暗闇が私たちを支配することはもうありません。ひとりで悩み、どのような状況に置かれても恐れる必要はありません。証印には効力があり、神さまと私との契約書である聖書の約束を見ると、日々絶大な守りがあり、慰めがあり、必要な知恵と力はいつでもどのような時にも注がれるのです。


今日の静まりの時間に思い巡らしてみます。

 

1、神の子とされた愛が心の中心にあります
一番深い、心の中心にイエスさまの愛が満ちています。湧き出る泉のように人生を満たしています。ただそのことに目を留めます。今この瞬間、あなたを脅かすものはいないのです。神さまの愛に包まれているからです。


2、ひとりぼっちではありません
わたしたちはいつでも空の手を喜びます。栄誉も尊厳にしがみつく必要はありません。空しさも絶望も握りしめません。神さまの豊かな手の中に私たちの人生のすべてが置かれている平安をただ感じます。神さまは私たちを見放すことは決してないのです。


3、必要は満たされ、守られます
思考を働かせて未来を見るならば、心配や恐れを強く感じてしまうことがあります。信仰の目を通して今をみるならば、揺るぎない愛と力が豊かに注がれていることを知ることができます。祈りは聞かれ、明日を思い煩うことなく、今生かされている喜びだけが心に宿ります。


4、天国への切符を手にしています
やがて、私たちの現実も、見える事柄は変化していきます。より良い変化を期待しますが、時には思わしくない出来事を受けとめることもあります。しかし、その道は決して悲しみと絶望に向かっているものではありません。天の栄光に続いているものです。心の目を開けて見るならば、イエスさまがいつでも両手を広げて、私たちを包み込んでくださるのです。


もう、大丈夫です。心に神さまの愛の証印が押されています。


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