海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

6月9日 秘密のお話し

おはようございます。
心配すると信仰が見えなくなり、信じると心配が見えなくなります。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 2章7節
『私たちが語るのは、隠された秘儀としての神の知恵であって、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。』


私の悪い癖は、何かの商品を購入した時に、説明書を読まずに組み立てたり、使い始めてしまうことです。そのことによって、あとで困ったり、使い方を間違ってしまったりします。そのように人生のあらゆる問題の解決方法も、自分自身の中にある設計図で対処しようとします。


その設計図には、自分自身の思考パターンが描かれています。人の見方、考え方の癖などはっきりとしています。良く思われるために背伸びをしたり、自分を悲劇の主人公にしたり、悩み、苦悩している姿の方に自分を追い詰めてしますことがあります。人の評価の中での自分、苦しみの人、悩みの人、傷ついた人が私自身だと思ってしまうのです。ある時はその自分が愛おしく、心地よく思います。それはとても大切な私たちの人生の一瞬一瞬です。


時に、自分の設計図では対処できない問題に遭遇します。行き止まり、立ち止まり、自分自身を見失い、良いことを思うことができないことがあるのです。この状況ではマイナスの力が強く働くことがあります。


思考は対処できない問題の中で混乱し、正しく機能しなくなるのです。そして、悪い感情が心に溢れてしまいます。ずっと私の人生にはこのパーターンが繰り返し起きています。


神さまの知恵という説明書を手にしてみます。そこには「隠された秘儀」と書いてあります。「隠された秘儀」が私たちの人生で動き始める時に、ものの見方、問題の解決の仕方、生き方そのものが変化していくのです。その隠された秘儀とはどのようなものなのでしょうか。


1、見えること以上に豊かな世界を見る
「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」
(第二コリント4章18節)
見えるものによって生きる以上に、今は見えなくても、共にしてくださる神さまの豊かさの中に生かされていることをゆっくりと味わいます。私たちの思考パターンは、目に見えるものを良いことか悪いことかと判断していまいます。しかし、隠された秘儀を知っている人は、苦しみの中にあっても祈る心が与えられます。弱さの中にあっても、強く守り導いてくださる神さまの御手を知るようになるのです。不幸と決めつけなければ、その事柄は最善へと変化していくのです。

 

2、私ではなくイエスさま
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)
目に見える知恵の人生から、目に見えない隠された秘儀が、私たちの人生の中心に変わります。イエスさまの愛が心にあたたかく宿っていることを知るのです。このイエスさまの愛を知ると良い意味で自分自身から解放されます。悩み、痛みの中にとどまる私ではなくて、イエスさまの愛と平和が心に満ちている今とされます。


3、神さまの栄光を見る
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)
原因を探して誰かを責め続けません。自分の人生を悲観的に見つめません。今がどのような時であっても、今までがどのように大変であっても、神さまはそのすべてを包み込み、神さまの業が現されることに変えてくださるのです。癒し、傷を包み、人生は良いよいものに導かれるのです。神さまの業が現されるのです。


4、低い心で高い道を歩く
「天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:9)
神さまの知恵が現されると、とても深い苦しみの現実でさえ、私の人生を悩ます大きな問題ではなく、事柄の小さな一面にすぎないと感じるようになります。そして、今は、暗闇であっても、必ず夜が明けることを信じる人になっています。その人は見ることでしょう。限りない愛と人生の尊さを。生かされていることの喜び、感謝、心の平安という光が豊かに私たちを照らしているのです。

 

今日も祝福と平安に包まれていますように、お祈りしています。
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6月8日 嘆きを喜びとする方法

おはようございます。
すべてのことを行なってくださる神さまが今日も一緒です。


☆今日の御言葉 詩篇84編6−7節
『幸いな者、あなたを力とし、心の中に大路を敷く人は。嘆きの谷を通る者たちはそこを泉に変えます。秋の雨がそこをまた祝福で覆います。』


神さまは、どのような状況から良いものを創り出すデザイナーのようなお方です。それは、決して感覚的なこと、気休めとしてただ信じるということではありません。神さまを信じることによって、実際の生活に神さまが生きて働き、わたしの心をつくり変え、感謝が溢れる今日の歩みとしてくださるのです。


錬金術師は、どのように、卑金属を価値あるものにつくり変えることができるのでしょうか。神さまの創造性は、良き錬金術師のようであり、有用なものをつくりだす陶器師のような姿です。


形は変えられ、状況は変化し、ある状態はそのままではなくて、良きこと、神さまの業が現されることに導かれるのです。自分では動かしがたい苦難、癒しがたい傷、それらがもし変えられるとするならば、わたしたちは、神さまを信じて生きる喜びを実感することができるのです。


嘆きを喜びとする、3つのステップ


1 苦しみの中に神さまの力を見る
私たちの苦難や痛みは、私の意識でレッテルを張ると、強固なものになってしまいます。自分で手ではなかなか抜けない雑草のように、持ち上げることのが困難なバーベルのように心に負担をかけるのです。


レッテルを貼らずに、現実に起きていることをそのことの本質だけを見ます。自分の思考によって、卑劣なもの、最悪なもの、不満足のレッテルを貼りません。苦しみの出来事の本質に、神さまの力が現されることをただ信じます。今まで苦しみと思っていたものは、ただの現実にとして目に映り、その現実は神さまの力によって変化していくことが可能なのです。

 

2、安心して嘆きの谷を通る
 苦しみの本質が見えてきたら、問題の大きな部分はすでに解決しています。嘆きの谷を通りますが、嘆きながらではありません。自分は不幸だと思う人はありません。


今は嘆きの谷を通らなければいけないという状況だけです。何も恐れることも、悲観的になることもないのです。それは過酷な道でもあるでしょう。イエスさまは共にてくださいます。私たちを耐えられないような試練の中に置くことはしません。神さまとわたしは強く結ばれていくのです。力は溢れ、道は示され、愛は心に満ちるのです。気づけば嘆きの谷を歩いていたのですが、豊かな泉が谷底に満ちて、疲れは癒され、心の渇きは潤されるのです。


3 祝福で覆う雨が降る
精錬された金は、急激に冷やされ、そして輝きます。苦しみの人は祈りの人に変えられます。痛みを経験した人は哀れみ深い心を抱く人になります。試練を通った人は神さまにある静けさ(平安)の中に生きる人になります。


押し迫るプレッシャーがあっても、目の前に問題が見えても、すべてを神さまの愛と信頼で包み込んで生きるようになります。その人生には常に神さまへの信頼があり、平安に満ちています。夏の激しい日照りの後に秋の雨が降ることを知っているからです。試練の後には神さまの深い信仰の喜びが満ちあふれ、痛みを通して、祝福の深い意味を見出すことができるのです。


今日も1日守れますように。神さまの愛に守られた祝福の日でありますように。

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6月7日 恐れの正体

おはようございます。
少し気温が下がって過ごしやすい日でありますように。


☆今日の御言葉 テモテへの手紙第二 1章7節
『神がわたしたちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。』


私たちの1日の歩みの中で、ある時は頻繁に訪れる恐れや臆病はいったい何なのでしょうか。どこからきて、どのように私たちの心を支配しているのでしょうか。


実は、恐れや臆病をつくりだしているのは、私たち自身なのです。恐れの正体は、わたしたちの中でつくられたアイデンティティーと呼ばれるものです。それは、人間性とか、わたしの本質として理解されますが、アイデンティティーは、環境や状況、人との関わりや言葉、誰かの手によって形成された場合が多いのです。しかし、この世で形成されたアイデンティティーよりも、はるか以前に、神さまの命の息吹が吹き込まれた、「ほんとうのわたし」がいるのです。


神の子として愛され、ものすごく豊かな個性が与えられ、天使たちに囲まれて、慈しみの眼差しで見つめられている「ほんとうのわたし」です。臆病な人ではありません。恐れの人でもありません。


力の人であり、愛の人であり、思慮深い人なのです。どのようにしてその「ほんとうのわたし」を豊かに見出して生きることができるでしょうか。


たとえば、3人の人が、霧が立ち込める夜道を歩いているとします。
一人目の人は、その夜道を恐れています。過去にもそのような道を歩いていて危険を感じたことがありました。行くべき目的地も見えず、大きな恐れが心が支配しました。


二人目の人は、なぜこの霧が生じてしまうのかと状況を分析しました。この霧は気温と湿度によって起きていること饒舌に話し始めました。恐れを少しは感じていますが、知識によって乗り越えてようとしていますが、不安な心は拭いきれません。


三人目の人は、全く恐れていません。状況はみな同じですが、この人の心には恐れはないのです。理由がありました。その手には、霧を貫きとおし、目の前の道をくっきりと照らす強力な懐中電灯(ともしび)をもっていたのです。


恐れや臆病はどこから来るでしょうか。霧や目的地を閉ざしている夜道が恐れの正体ではありません。その状況で、恐れを心に生み出すことも、信頼を生み出すこともできるのです。豊かな平安を見出し、神さまの助けに支えられて、一歩一歩進むことができます。


私たちの足元を照らし、周りを照らし、行く道を照らす信仰のともしびを手にしましょう。神さまは、わたしたちを限りなく祝福していてくださるのです。


力のともしび
恐れに巻き込まれないでください。心に臆病を育てないでください。神さまは、力のともしびをわたしたちの手にいつでも与えてくださるのです。神さまに愛されている者として今日を歩みます。


愛のともしび
一緒に歩む人たちとともに愛のともしびを手にします。暗闇を恐れている人がいます。怯え、傷つき、本当の自分を見失うことがあります。愛のともしびが必要です。自分だけの人生が照らされるのではなくて、一緒に歩む人をも愛で照らすことができるのです。


思慮のともしび
恐れや臆病や、いつでも私たちに近づこうとします。道に迷い、岐路に立たされ、これからの人生はどのようになるのだろうかと戸惑う時に、恐れはその戸惑いを餌にして私たちの心に住み着こうとします。思慮のともしびをみことばによって手にします。道は開かれます。神さまが一つひとつの歩みを示し、教えてくださるのです。

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6月6日 神さまにはできる

おはようございます。
神さまの近くには平安と喜びが満ちています。


☆マルコによる福音書10章27節
『イエスは彼らを見つめて言われた。「人にはできないが、神にはできる。神にはなんでもできるからだ。」


深い湖の底には、揺るぎない静けさがあります。湖上では、季節の移り変わりの中で、嵐が吹いたり、雨が降ったり、寒さの中で雪が舞い散ることもあります。それでも、すべては水面上で起きていることで、湖の深いところでは、いつも平穏なのです。


神さまとともに歩む人生は、この湖全体の姿をイメージすることができます。決して揺れ動かない深い部分とわたしたちはつながっているのです。みことばは、神さまの愛の言葉として、いつでもその生活を覆い包んでいます。


わたしという小さな存在だけを見て生きてきた人生です。湖の深い部分に関心を寄せるよりも、湖の上でボートに乗っているように、人生を見つめていました。


ボートの上では、季節の変化、今起きている状況によって揺れ動き、悩まされ、ある時は他のボートとぶつかり傷つきます。ずっとボートの上にいると、人と競争したり、妬んだり、誰かを許せなかったりと、一日中、オールをもって一生懸命前へ前へと進もうと疲労困憊しています。もちろん釣りをするように楽しいこともたくさんあります。


静まって祈る時に、わたしはどこに居るのかと気づかされるのです。湖が人生だとするならば、その湖の上での出来事で、すべてを理解することができません。深淵とつながっているのです。


むしろ、見えることでの生活の慌ただしさから、ボートを降りて、湖に飛び込むようにして、深淵な存在である神さまとつながるときに、もっと豊かなで、静寂があり、決して揺らがない神さまの愛の深さの中に包まれて生きることができるです。


今日のみことばの前には、イエスさまとある金持ちの青年との語り合いがありました。この青年は、上手ににボートを漕ぐことができます。だれよりも能力があり、だれよりも意識が高く、賞賛と誉を手にしていました。ボートにはたくさんの富が積まれています。


しかし、「永遠の命を受け継ぐには何をしたらいいでしょうか」と問う青年に対し、イエスさまは語りかけました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に与えなさい」(マルコ10:21)この言葉は、青年にとって辛く、難しいことでした。今までたくさんのものを人生のボートに詰め込んでいたからです。イエスさまはこのままではボートが沈んでしまうこと、空しさの中に置かれてしまうことを知っていたのです。


積荷を降ろしなさい、と語られたイエスさまです。ボートから私たち自身も降りて、深い湖の静寂を味わい、神さまを経験する永遠の豊かさの中に招かれているのです。深淵なる神さまの命のみことばとつながる時に、湖上での人生だけに固執することがなくなります。もっと深い神さまの愛に包まれて、わたしも揺るぎない平安をいただくことができるからです。


湖上では、人にできること、できないことが大きな価値をもたらします。
たまには、ボートに乗って人生を楽しむこともあります。
しかし、いつでも、深く生きる道を祈り求めています。
深い湖の中では「神には何でもできる」という優しい光がいつでも照らしているからです。


ボートから降りて、恵みの世界へと飛び込みます。


わたしたちの人生に新しい世界が開かれていくのです。

人にはできないが、神にはできる。神さまが共におられます。豊かな湖の中を泳ぎましょう。
深く深く、みことばの静寂に共に留まりましょう。


今日の日がすばらしい神さまの愛と平安の中で過ごせますように。
 

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6月5日 香りで疲れを癒す

おはようございます。
新しい朝、イエスさまが私の内に生きています。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙二 2章15節
『私たちは神に献げられるキリストのかぐわしい香りだからです。』


エッセンシャルオイル精油)をいただいたことがあります。自然の植物の花や葉、果皮、樹皮、根、種に存在のする天然の液体で、植物の香り成分が凝縮されています。そして、このエッセンシャルオイルには、その香りによって、心の状態を整えるものや、前向きにさせてくれるものや、癒し、リフレッシュさせてくれるものがあります。


今日のみことばの中に「キリストのかぐわしい香り」とあります。どのような香りなのでしょうか。香りは、広がるものです。体、心、空間にまで香りの成分は広がっていき、その存在を包み、心を整え、バランスを整えてくれます。


キリストのかぐわしい香りは、私たちを不愉快にさせるものではありません。心が締めつけられて、生きにくくさせるものでもありません。神に献げられたキリストのかぐわしい香りは、私たちは元気にしてくれるのです。生きる勇気と希望、感謝と喜び、愛を分かち合い、平和の道に生きる充実した今日の日を過ごさせてくださるのです。


エッセンシャルオイルは、幾つか種類があって、その時の気分、状態に合わせて、調合して香りを楽しむと良いみたいです。
聖書のみことばを通して、キリストのかぐわしい香りを楽しむとどうなるでしょうか。


・生き生きしたいとき
(温かいお風呂に入るように、ローズマーリの香りの中で、みことばを思い起こします。)
「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(詩篇46:11)
ゆっくりと神さまの恵みを思い巡らし、今までの歩みで助けられたこと、支えられたことを思い起こします。疲れは、自分の力に集中してしまうことによって、生じるものです。重荷をおろし、委ね、神さまと共に休み、より頼みます。平安を感じるまで、内側から力が溢れるまで待ち望む時に、神さまが私たちの人生に生きて働いてくださることを知ります。わたしたちの活力はここから生まれます。


・リフレッシュしたいとき
(老廃物は溜まってしまうので、フレープフルーツのような柑橘系の香りで、排出しましょう)
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)
たくさんものを背負っています。葛藤しています。自分自身の姿、世の中のこと、憂いて心を痛めることがあります。自分の葛藤も思いも、抱える怒りも闇も罪も、心にずっと置いておくと、生ものが腐敗するように、悪臭を放ちます。イエスさまの十字架の赦しを求めます。イエスさまの傷ついた手にすべてを委ねます。心は整えられ、自分が本当に向き合うべきことが見えてきます。私の人生は素晴らしい神さまの愛と赦しに包まれているのです。


・元気に今日を過ごしたいとき
(ラベンダーのような爽やかな香りで、心をマッサージして、もみほぐしましょう)
「恐るな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ書43:1-3)
みことばをゆっくりと読み、静まります。現実のあらゆることに集中するのではなくて、みことばに集中します。わたしたちの心は過去や未来の憂いや心配が蓄積しています。みことばの爽やかな風を吹き込ませ、心にみことばを深く宿らせます。そこから喜びと信頼、絶大な神さまの守りの手の温もりを実感することができるのです。


エッセンシャルオイルでなくても、お時間の合間にハーブティーを飲みながら、上のみことばをゆっくりと思い巡らし、沈黙し祈り、キリストのかぐわしい恵みの香りで、疲れが癒されていく時でありますように。

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6月4日 恵みの人になる

おはようございます。
主を待ち望むと力を受けます。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 15章10節
『神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄にならず、私は他の使徒たちの誰よりも多く働きました。しかし、働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。』


不幸な花を見たことがありますか。ストレスいっぱいの杉の木や、いつも心配し憂いている空の鳥を見たことがあるでしょうか。


花に否定的な言葉を常に語りかけても、花はその言葉によって自らを否定することなく、美しく咲き続けるでしょう。暴風によって倒されそうになっている木々も、風に抵抗することなく、まっすぐに立ちながらも葉を揺らしています。空の鳥に、少しはよく考えて明日の糧を心配するようにと説得しても、目を丸くしながら飛び立っていくでしょう。


創造主なる神さまの命につながって、今を生きているのです。神さまの恵みは、その人らしく今日を歩めるように導いてくくださいます。神さまの恵みは、嵐の中で揺れ動いても、倒れないようにしっかりと支えてくれます。神さまの恵みは、すべての必要を今日溢れるほど満たしてくださるのです。


それでも、この世で生きる私たちは、とても難しい問題に直面することがあります。複雑な心を抱えながら、今を神さまと共にいる安らぎの中に歩めないことがあるかもしれません。


喜びを見出すことのできない状況の中に生きることがあっても、難しい人間関係や問題の中に置かれていても、風を通すフィルータのように、問題を問題とすることなく、困難を恐れと受け止めず、自分自身が風通しのよい姿になります。すべてを自分の力と知恵で解決しなくていいのです。心配が来たら、そのまま受け止めず神さまに委ねます。恐れが来たら、神さまの力に信頼します。痛みの現実を見たら、天を仰ぎ祈ります。


パウロはそのような恵みの人として歩みました。
喜んで生きるための、3つの言葉が語られました。


・恵みによって今のわたしがある
私たちの歩みを振り返ります。喜びも悲しみも経験しました。悲しい時、絶望と思う時、神さまの恵みの力は豊かに私たちを守ってくださいました。恵みによって今のわたしがあるのです。


・神の恵みは無駄にならない

労苦がありました。空しさを感じる時があります。私たちの祈り、手の業、今日生きるすべての場所に神さまの恵みの手が置かれています。祈りつつ歩む時に、神さまの恵みに信頼して歩む時に、すべてのことは無駄になることはありません。神さまの恵みの出来事を見ることになるのです。


・共にある神の恵み

神さまの恵みがわたしたちを取り囲んでいます。神さまの愛は、私たちを、親鳥の翼の中に守られている雛のように包み込むのです。周りには心配の状況があるでしょう。不安も押し寄せてくるでしょう。何も心配することはないのです。恐れの中でも、共にある恵みは今日を守っているのです。


今日、私たちは1日、恵みの人となって歩いてみます。自分の思考も感情も控えめにしてください。3つの言葉をいつでも思い巡らします。


「恵みによって今の私がある」
「神の恵みは無駄にならない」
「今、この瞬間、いつでも神の恵みは共にある」


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6月3日 エデンの園を体験する

おはようございます。
神さまのみことばが心の潤いとなりますように。


☆今日の御言葉 創世記3章5−6節
『女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。』


もし、エデンの園を1日体験することができたらどんなに素晴らしいでしょうか。エデンの園では、神さまの声がいつでも聞こえます。とても豊かな世界で、悩み、悲しみはありません。いつでも助けられ、慰められ、神さまの愛の中に安心して過ごすことができるのです。不足するものもありません。搾取や争いもありません。飢えることも、渇くこともありません。


毎日が冒険にあふれ、心は満たされ、大自然の中で深呼吸しながら、生かされていることの喜びを実感します。過去も未来も何も心配することはありません。豊かな神さまの足音が聞こえるほどの距離で、過ごすことができるからです。


今、私たちの生活の場所は決してエデンの園のような安全な場所ではないでしょう。恐れや不安が近くにあり、偏見や痛みがあります。神さまの深い愛、慰めを豊かに実感できない時もあります。


エデンの園の外で過ごすことになってから、人と人との争い、不破がすぐに心を支配しました。イエスさまは、十字架の後、復活し、聖霊を人々に注がれ、神さまと私たちの関係は回復され、エデンの園への道が再び開かれたのです。


エデンの園の中を今日神さまとともに歩みましょう。


エデンの園の深く入っていきます。道を進んでいくと、エデンの園の中央に2つの木がありました。


一つは「命の木」でもう一つは「善悪の知識の木」です。エデンの園の喜びと平安は、善悪の知識の木の実を手にしてしまった時から失われました。今日、わたしたちがエデンの園の祝福の中を歩むために、すでに手にしてしまった善悪の知識の木の実を一つずつ手放してみることです。それはとても難しく、1日で達成できる目標でありません。それほど・・善悪の知識の木は魅力的なものだったのです。


・食べるに良く・・・自分自身で、美味しいもの、口に合わないものを判断するようになりました。非難、無理解、偏見はこここから生まれます。


神さまが与える実は、いつでも良きものにつながっています。何事も自分の判断だけに頼って物事を解決しなくて大丈夫なのです。祈りと信頼の実をいのちの木から手にして歩む時に、神さまは、わたしたちの生活をいつでも最も良きことへと導いていてくださるのです。


・目には美しく・・美しい花に囲まれているような人生であったらと願います。だれもがその美しさ、豊かさ、目で見て良きものを求めています。それは手にとってみると輝いているように一瞬感じるものです。しかし、その輝きはどのようなものであっても永遠ではありません。


神さまには、永遠があります。たとえ、目で見て自分の満足する良きものでなかったとしても、目で見て美しいと思えない現実があっても、神さまにあって、私たちの内は日々新たにされて輝き、人生の中身は深い味わいと喜びがいつまでも溢れているのです。


・賢くなる・・知的な欲求は私たちの人生を充実させるものです。階段を一段ずつ駆け上がっていくように、知識は私たちの人生を次の新しいステージへと導いてくれるものであるかもしれません。イエスさまは十字架の上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。苦しみの意味を問われたのです。


苦しみの意味、困難を経験していることの意味を無理に理解しなくいいのです。ともに祈りの道に歩みます。求めながら、分からないと思いながら道を進みます。その道の先には、自分の想像をはるかに超えた、すばらしい神さまの恵みの世界が広がっています。知識の高嶺よりももっと、喜びと感謝が満ちているところへと導かれるのです。


もう、自分の手で「善悪の知識の木」の実を握りしめなくて大丈夫です。


今は良きものに見えない祈りの課題も、やがて神さまを賛美することに変えられていくでしょう。


目に見える美しさがたとえ失われることがあっても、自分の思い通りにいかなくても、私たちは今ここから神さまの深い輝きで内実が満たされていくことができるのです。


知識の高嶺を急いで目指さないでも、別の道があります。祈り、信じ、委ね、愛いをもって生きるその道の先に祝福が待っているのです。


手からこぼれ落ちた善悪の知識の実は腐敗しますが、命の木の実は、これから永遠に輝き続けるのです。

 

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