海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

6月2日 祈りのテーブル

おはようございます。
今朝は神さまの声が鳥のさえずりのように響いています。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙1章11節
『キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。』


私という小さな存在に、大きな変革が訪れました。「キリストにあって」それは起こりました。大いなる存在が私たちに近づき、その手に愛と喜びと平安を溢れるほどに抱えて、私たちの人生に満たしてくださいました。新鮮なとりたてのフルーツの実のような祝福は、いつでも、どんな時でも、神さまが私たちに近づき、「恐れるな、わたしを信じなさい」と呼びかけて、揺るがない平安の中に守ってくれます。


しかし、もう一つ、わたしたちに近づくものがあります。それは、過去の痛みであり、自分自身が経験した苦々しい実です。食べれば、気分が悪くなるのはわかっていますが、いつでも、過去の憂いから、未来の心配から取り出して、それを食べようとしてしまうのです。苦く、後味は悪く、生かされていることの喜びが失われるようです。それでも、無意識のうちに痛みを取り出し、手にするのです。


「痛みの現実」を「喜びの真実」へとイエスさまは私たちの人生を変容してくださいます。それはどのように今日の私の生活に実現するでしょうか。
今日のみことばにある3つのみことばを思い巡らします。


1、御心(みこころ)が豊かであること
どのような暗闇の道にも光を照らしてくださり、痛みと傷が見えても、「大切な神の子」と、いつでも「本当のわたしの姿」を思い起こさせてくれます。この世に真実がないと、失望してしまうことがあっても、神さまの約束は決して変わらないことを教えてくれます。みこころは、私たちが祝福されることです。わたしたちが喜ぶことです。神さまを讃えて生きていくことです。みことばを味わい続けると、苦い実も神さまの恵みを味わうものにされていきます。


2、神さまの深淵な計画の中に「今」があること
エスさまは、わたしたちの心の目を開いてくださる方です。自分の道だけを見つめて生きていくと、神さまの守りに対して盲目になってしまいます。この世の限定的な状況だけを見て生きていくと、息苦しく人生はつまらないものになります。


エスさまと一緒に、心の目を開きます。最初は、何か形がはっきりとしない世界を見るでしょう。霧の中にいるように思ってしまうでしょう。心の目を開くことに慣れていませんでした。ずっと、この世をみて、見えるものですべてを判断していた私です。イエスさまが心の目を開いてくださる時、「わたしはあなたに計画をもっている。それは、災いの計画ではなくて、あなたに将来と希望を与える計画である」と静かに、そして確実にわたしたちの心に語られるのです。迷うことはありません。苦しみの先に、人間的な失望の先に、イエスさまが豊かな祝福の道を開いてくださっているのです。


3、選びの中に今日があること
神さまは、祈りの人を必要としています。祈りは、暗闇を光へと変える力です。たくさんの過去の痛みを祈りのテーブルにおきます。それは決して自分を責めるもの、自分の人生をむなしくさせたもの、として決めつけなくていいのです。ただ、それをイエスさまがおられる祈りのテーブルにおくだけです。それを見つめ続けて、自分で解決しようとしなくていいのです。ただイエスさまと一緒に見ているだけです。


エスさまは、大きな手でその一つひとつを手にとり、痛みを知ってくださり、癒されるように、信じるように、自分自身も誰かをも傷つけることのように守ってくれます。いつでも祈りのテーブルを広げましょう。何か困ったことがあったら、とても深刻な問題や葛藤が心に生じることがあったら、悲しみや失望に押しつぶされそうになったら、すぐに祈りのテーブルを行きます。そして、「イエスさま・・」と呼びかけ、席につきます。テーブルの上のあらゆるものを見て心配し恐れないでください。イエスさまは、一つひとつに手を置き、祈りを聞き、神さまが豊かにその問題に働いてくださる御手を見ることです。そして、祈りの人となって、誰かを支え励ます人とされるのです。


とても素敵な「支えとなる聖歌」という賛美歌があります。この賛美とともに、「祈りのテーブル」でイエスさまと過ごす恵みの一日でありますように。


支えとなる聖歌→ https://youtu.be/QhrolNbAXQo
 

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6月1日 置かれた場所で輝く

おはようございます。
神さまに近づけば近づくほど、自分を尊ぶことができます。


☆今日の御言葉 箴言21章1節
『王の心は主の手の内にある水路。主は御旨のままにその方向を定める。』


私たちの今日の日は、運命という鎖に縛られたものではありません。人の言葉で心を固くする必要はありません。周りの出来事でたとえ身動きがとれないほどの困難があっても心配しすぎると心は疲れ果ててしまいます。


私たちの心は、人生の幸不幸を生みだす工場のようです。不安や恐れは短時間で生産できても、平安と信頼は、すごく時間がかかってしまいます。不安や恐れに精巧な技術は必要がありません。平安と信頼は、輝く価値が計り知れないので、生みだすための時間が必要となるのです。


価値があり、精巧につくられるものは、ある一定の丁寧な工程をとおって完成するように、私たちも今日、平安と希望と信頼を生み出す心となることを一緒に祈り求めます。


・手放す
最初の工程は、手放すことです。わたしたちは、自分が空の手になることを恐れています。自信、栄誉、確信、喜び、数々のこの世の幸せの価値を計るものを求めて、それを手にしています。それが手からこぼれ落ちることは不幸であると錯覚してしまいます。


神さまの恵みが流れ出ると、空の手になることの充実を感じることができます。自由で喜びが溢れます。弱さの中に神さまが働いてくださることを見るからです。神さまが慈しみの眼差しでわたしの今日の必要を知って助けてくださるからです。手放す時に、もっと自由に神さまが私たちの人生に働いてくださるのです。


・決めつけないこと
決めつけることは、ある意味でとても気持ちのよいものです。心が一瞬スッキリします。それはどのような知恵であっても、情報の確かさや内容はどうでもいいのです。何かを決めつけて生きていけば楽だと思います。石段のように、一つひとつを決めつけて、その道を歩こうとします。しかし、その道はいつでも危うさがつきまといます。本当の意味での平安にたどりつくことができないのです。


自分が自分の道に置く石段ではなくて、神さまが一つひとつ、一歩一歩、みことばの石段を置いてくれます。それは、わたしたちの「決めつけ」の道よりは遅く感じたり、何事も思うように早く進まないこともあるかもしれません。それでも、みことばの道は確実であり、喜びがあり、将来と希望を与えるところに行き着くのです。


・人生に抵抗しないこと
あえて逆風の中を走ろうと思う人はいません。目には塵が入り、足を前に運ぼうとしても思うように走ることができないばかりか、疲れ果ててしまいます。向きを変えてみます。物事を見る目を変えてみます。いや、むしろ逆に考えてみます。「あの人はダメだ」→「あの人はものすごく可能性があるかもしれない」「神さまは祈りに答えてくれない」→「神さまはわたしが思うよりもはるかに大きなことを用意してくださっている」・・・自分の思考の正反対に、聖霊の豊かな風が吹いている時があるのです。この聖霊の風に力を抜いて委ねると、今まで見たことのない恵みの世界へと導かれます。


・あるがまま受け入れる
「あるがまま」というのは、少し不恰好で、ゴツゴツのした岩のようなものであり、穴や傷、決して見栄えのよいものばかりではありません。神さまは、この「あるがまま」が大好きなのです。すべてが完璧なかたちをしていて、歪みも、凹凸もない均一なプラスチック製品のように私たちを造られたのではありません。味わい深く、だれも同じではなく、そして、その姿は本当に美しいのです。愛しく、神さまの大きな手に抱かれている一人ひとりです。


自分を喜び、隣の人を尊び、人生は神さまが豊かに働いてくださる水路なのです。
水の流れは、今日も天から流れ出て、私たちを愛し、満たし、守っていてくださっているのです。


わたしたちの心は、神さまの手の中にある豊かな水路のようにとめどなく、溢れるほどの恵みが流れ出て、置かれた場所で輝いています。

 

※5月31日ペンテコステ礼拝のメッセージをYoutubeにアップしました。
お時間が許される時がありましたら・・。
「恵みのメッセージ」 https://youtu.be/6HDOoHOcU50
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5月31日 希望を育てる人

おはようございます。
神さまの力に今日満たされます。


☆今日の御言葉 ローマ4章17ー18節
『彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父なりました。』


今日はペンテコステ礼拝です。この日が来ることをどれほど待ち望んでいたことでしょうか。イエスさまは、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都に留まっていなさい」(ルカ24:49)と語られました。


私たちは、人生のある時、何かがすぐに与えられないと思う「待ち」の期間があります。それは、あらゆることの中で起こります。家族の問題、自分の健康、仕事、学校、人間関係、自分の思うように事柄が進まず、かえって悪い方向に向かっているように感じ、自分の思いも平安よりも恐れ、喜びよりも悩みや怒りが心を支配してしまうのです。


ここで、その人の行動は、二つの方向に進むための岐路に立たされます。一つは祈りの道で、もう一つは嘆きの道です。祈りの道は狭く、細く、その先に目に見える良いことがないように思ってしまいます。嘆きの道は、最初は広く、歩きやすく、自分の力を信じて進めば問題の解決が見えるように思います。


なぜ、祈りの道には希望が目に見えるように現れていないのでしょうか。


希望は、人生の先にあってたまたま見つけたり手にするものではありません。だれかが希望を届けて、私の心を喜ばせてくれるわけではありません。実は、神さまは希望の小さな命を一人ひとりにすでに与えてくださっているのです。


希望は、信仰と祈りで育てることができるのです。祈りの道をゆっくり歩み、信じて、涙を流す時にもしっかりとその希望を抱く時、豊かに育まれるのです。


希望の小さな命を抱いて生きた人がいました。信仰の父と呼ばれたアブラハムです。アブラハムは、希望を育てる人でした。希望をいつでも抱く人でした。信じる人でした。望みえない時も希望を捨てることをしませんでした。


希望を共に育てましょう。祈りをもって、「神さまは死者を生かすことのできる方」と繰り返し思い続けます。信仰をもって「神さまは、無から有を呼び出される方」と自分の内に語りかけます。


私たちは、希望を抱く人です。家族にもこの希望は与えられています。目に見えなくても、失望し、諦めないでください。


外側の人は衰えても、内には希望が生き生きと私たちの人生に輝くのです。たとえ、難しい問題の中で、打ちのめされそうになっていてもいても、人生は不幸だと思わないでください。神さまは、無から有を呼び出させるのです。見ていてください、何もないところから、神さまの業は起こされます。待っているならば、その期間が長いほどに、神さまの大きな業を見ることになるのです。


望みのない時こそ、希望を育てる大切な機会とされます。神さまは、わたしたちの特別に愛し、豊かな喜びで私たちの人生を楽しませてくださるのです。

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5月30日 ポジティブ力

おはようございます。
神さまの希望の計画の中の1日です。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書15 章31−32節
『すると、父親は言った。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』


わたしたちは、誰でもネガティブ(否定的)のスイッチとポジティブ(肯定的)なスイッチを持っています。このスイッチは人間関係の中でよく作動します。ある時は、愛し合い、満たされ、慈しみを感じ、ポジティブな関係性を喜び、心は満たされます。ある時は、相手が自分の思うように応えてくれません。言動が受け止められず、憎しみ、怒り、非難の思いが強くなり、ネガティブスイッチが全開になります。


わたしたちは、1日の間に、あらゆる人間関係の中で、ポジティブスイッチとネガティブをスイッチをつけたり、消したり、忙しくしていまいます。今日のみことばには、ネガティブスイッチを全開させてしまっている一人の人が登場します。


この人には、弟がいました。その弟の生き方、言動、それに対する家族の対応、そのすべてが納得いくものではありませんでした。葛藤し、怒り、非難の数々を指で数えても、あらわしきることができない程でした。


人間は、一つのリンゴの半分の姿のように、もう半分をいつもどこかで求めています。とくに人間関係では顕著に現れます。自分を満たしてほしいのです。自分の思うように反応してほしいし、愛し、受け入れ、認めてほしいのです。それが満たされると、リンゴが一つになるように、完全性の追求を繰り返しています。


弟の振る舞いを、父親の対応に不満をもっていたお兄さんは、どこかで、親にも兄弟にも、自分を認め、愛し、自分を尊重し、思いを完全に満たして安心させてほしいと願っていました。しかし、その満たしとは、程遠い状況です。


ネガティブな場所にいるお兄さんにお父さんは優しく語りました。「いつも私と一緒にいる・全部お前のものだ・喜び祝う」と3つのポジティブな言葉を使いました。


・いつも一緒にいる
私たちの今日の日は、神さまの大きな手が広げられた豊かな愛の翼の中に置かれています。大いなる存在がわたしと一緒にいてくださるのです。そのことをただ喜ぶ1日があります。人がどうであれ、人の振る舞いが気になっても、それが、神さまと私の間に入って思い煩いのもととする必要は全くないのです。


ある人は喜んでいるでしょう。ある人は要求し、自分の言動を非難するかもしれません。誰かの言葉によって心が支配されてしまうことがあるでしょう。それが私の人生を支配させ、揺るがす必要はないのです。父なる神さまの懐に抱かれている中で、人を見ることができます。絶大な愛の中にいるわたしたが、今日あらゆる人との生活の中に生かされているのです。


・全部お前のものだ
お兄さんの弟への不満は、不誠実な弟が重宝され、お父さんから弟がよいものをたくさんもらったからです。お兄さんは誠実にしてれば良いものを受けることができると一生懸命でした。だからこそ、不誠実な人が良きものを手にすることを認めることができなかったのです。不満足が心に満ちていきます。


この不満足が来た時には、私たちは心に入れません。その変わりに、静まり、心を神さまに向け、祈ります。真実は、神さまは、本当に良きものを与えてくださるお方です。人とは違うかもしれません。人が手にしているものを見つめる必要はありません。わたしの手にあるものに集中します。神さまの恵みは、一人ひとりの手に豊かに与えてくださっているのです。


・ともに喜び祝う
泣くものと一緒に泣くことはできても、喜ぶものと一緒に喜ぶことができないことがあります。誰かの不幸が蜜の味となって、誰かの幸福は嫉妬の種となって心に蒔かれてしまうのです。この世の現実の中では、あらゆる人間関係の中から、この嫉妬の種がどこからが蒔かれて、わたしの心を覆ってしまいます。放っておくとどうなるでしょうか。ただがまんしているとどうなるでしょうか。嫉妬の種は、雑草の強く、やがて心を憎しみで覆い尽くしてしまうでしょう。


喜びの種を撒きます。そこには葛藤や心理的な抵抗を感じるでしょう。神さまが喜びの種を手に与えてくださいます。自分で無理やり喜びを得なくていいのです。神さまの前で手を広げます。今日の私の心の喜びを与えてください。祈り求める一人ひとりの手に豊かに与えられるでしょう。それを生活の場所に撒くだけです。やがて、素晴らしい平安と喜びと愛の実が結ばれます。


神さまがボジティブなスイッチを今日押してくださって、平安の日でありますように。

 

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5月29日 恵みに生きる3つエクササイズ

おはようございます。
エスさまの優しい微笑みに包まれています。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第二 8章23節
『兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光を映す者です。』


夜空に月がやさしく光を放っています。月は太陽の光を反射して、この地を照らします。神さまと私たちとの関係は非常に豊かです。神さまが輝く光をわたしたちの内に与えてくださり、わたしたちはその栄光の光を受け、反射して生きていくことができるのです。


神さまの恵みに生きるエクササズがあります。

 

エクササイズ1  みことばを口ずさむ


私たちは外側からの活力や生きがいを求めて歩むことがあります。しかし、もう一つ、内側から湧き上がるエネルギーを感じることができます。それは神さまが与えてくださっている愛の力です。みことばの中にこの力が秘められています。

 

みことばを心の深くに思い巡らします。旧約聖書の時代の人たちは、道を歩く時もみことばをなんども繰り返し心で思い巡らしました。立っている時も座っている時も寝る時も、そのみことばを口ずさんだのです。内側にエネルギーが満ちていきます。これは感覚的なこととは違います。感覚は浮き沈み、揺れ動きがあるものですが、みことばの力は、確実にわたしたちの心に神さまの愛の芽を生えさせてくださるのです。そこから生きがいの実が結ばれ、今この瞬間を喜ぶ力がわきあがります。


エクササイズ2  50/50の法則


この内側に溢れるエネルギーを実際の生活で使ってみます。どのようにするかというと、私たちの心の感情や思考で物事を理解したり、行動したりすることとともに、神さまと語り合うようにすべてのことを行ってみます。考えつつ行動することを50パーセント、祈りつつ歩むことを50パーセントにしてみます。


旧約聖書の時代には、家の門にみことばを貼り付け、いつでも自分の額にみことばが入っている箱を巻きつけました。だいぶ変な格好ですね。そんなことをしたら周りの人たちに心配されていまうかもしれません。実際のものではなくて、出かける時に心で「主よ、守ってください」帰ってきた時に「今日過ごせて感謝します」仕事や勉強、家のことをする時にも、イエスさまと何でも語り合うように、「イエスさま、今これをします」「イエスさま、今あれをします」・・と、共にいてくださるイエスさまをいつも感じます。道行く人を祝福し、人と出会うその時に心で祈ります。


エクサイズ3   イエスさまの名を置く


自分の力の領域、目に見えるあらゆる生活の出来事、人の顔や言葉、実際の手の業、そこから生じるストレスや痛み、1日の間に多くの時間が使われます。その割合の中で、必ずその生活時間の隙間があります。そこに栄光が輝くように、「イエスさま、助けてください」「イエスさま、満たしてください」と一つの用事、一つの出来事が終わったら、祈りの体制に心を整えます。


生活の中で、見える部分と、見えない部分を区別するように、その割合をより見えない部分に集中するようにします。イエスさまの光が生活の中に入ってきます。そのままで生きる時に、家庭や人生、今日歩むその場所に、神さまの愛の臨在が留まるのです。


無理せず、ゆっくり今日の1日が守られますように。
エスさまの光が輝き、その光は反射して周りをやさしく照らされます。

 

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5月28日 イエスさまと乾杯

おはようございます。
神さまの豊かな光の中で闇はもう支配しません。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書22章20節
『食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。』


エスさまが杯をかかげました。「カンパーイ」と言ったわけではありませんが、ここには「新しい契約」という祝福の言葉が語られています。


十字架の前夜、裏切りの心をもっている人たちがいる食卓、決して平和で安全で、心地の良い場所ではありませんでした。お祝いできる状況ではなく、命の危険、死がせまっている中での出来事です。


しかし、それは新しい時代の始まりでもありました。イエスさまとお弟子さんたちとが過ごした最後の晩餐には、真実が隠されていました。


暗闇に向かっていくようで、実は輝かしい希望に導かれていました。悲しみがあるようで、その涙は神さまの恵みを喜ぶ涙に変えられていく時でした。裏切り、不信仰、そのような人間の心の動きがあっても、豊かな神さまの愛がその心を包み込むのです。


エスさまが掲げた杯の意味は、新しい時代の到来でした。その鍵となる言葉が「新しい契約」です。


この「新しい契約」は、旧約聖書エレミヤ書31章の祝福の約束です。


『その日が来る。ー主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。・・私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。・・私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。』


紙ではなく、石の板でもなく、この新しい契約は、わたしたちの心に神さまの指によって直接、書き記されるのです。


今日、時間をとって(2分)以下のみことばを繰り返し心に語りかけます。
ちょっとした合間でも、時間がとれるときでも・・。


「神さまは、強いものの手から贖い、罪を完全に赦してくださいました。」
 (エレミヤ31:11)

 

「神さまは、教会に出会わせてくださって、シオンの丘で喜び歌い、恵みによって晴
 れやかな祝福の人生を与えてくださいました。」(エレミヤ31:12)


「わたしの必要は必ず満たされます。神さまがすべてをご存知だからです。穀物、新しいぶどう酒で、人生を潤う園のようにしてくださいました。」(エレミヤ31:12)


「わたしの心に神さまが与えてくださった喜びがあります。嘆きを喜びに変え、いつでも慰めてくださり、喜びを与えてくださいます。」(エレミヤ31:13)


「これからの生涯、神さまは常に良いもので満たしてくださいます。」(エレミヤ31:14)


なんども繰り返し、みことばで心を満たしてください。新しい契約が与えられ、みことばが神さまの指によって私たちの心に書きしるされるのです。


私たちの人生は祝福で満ちあふれます。
エスさまと一緒に人生をお祝いし、「乾杯」しましょう。

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5月27日 健康の秘訣

おはようございます。
自分へのこだわりを捨てると楽になります。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙2章6−7節
『キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。それは、キリスト・イエスにおいて私たちが賜った慈しみにより、神の限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に現すためでした。』


インボディー(体成分分析)という器具で体の内部を測定したことがあります。体重を計るだけではなくて、体脂肪率や筋肉量、内臓脂肪や水分量などを計測することができます。今までは、自分の体の外側のことは気になったとしても、内側のことについてはあまり気に留めませんでした。自分の内部を測定したときに、私自身の全体像が見えました。そして、内側を意識することによって、生活習慣が変えられました。


私たちの内側、私自身の本質の一番深い部分には何があるでしょうか。わたしたちはあまり自分の内側にあるもの、本質、存在、湧き上がる神さまの力、尽きない神さまの愛、イエスさまが共におられるという最も素晴らしいものを強く感じたり、意識することなく歩むことがあるかもしれません。


私たちの本質の部分にもっとも大きな力があります。今日の聖書箇所には、「キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座につかせてくださいました」とあります。ここには、イエスさまの生涯、十字架、そして三日目の復活、天へと続く道が示されています。


この御言葉の意味は、より深い神さまの恵みを体験する領域へと導かれる一つひとつの段階が記されています。


エスさまの生涯(この世の領域)
神の子が肉体をとられ、生涯を歩まれました。その地上の生涯では、おそらく私たちが経験する人生の喜び、痛み、悲しみ、裏切り、疲れを経験されました。わたしたちは、生活の中で経験するあらゆる葛藤、痛み、生きにくさ、それはイエスさまが一番よく知っていてくださっています。これが私たちの人生のすべてではありません。過ぎ去るものであり、その時は激しい試練であっても、私たちのほんとうの姿が損なわれることは決してないのです。次の領域にすすみます。

 

十字架(痛みと死の領域)
エスさまは、十字架を経験されました。死は、私たちがこの地上で経験する最も深い闇であり、痛みです。その道を通る時には、一人ではありません。イエスさまは十字架を経験され、わたしたちの死の陰の谷を歩む時にこそ、共におられる十字架のイエスさまの姿に出会うのです。痛みを共に担い、苦痛の叫びを共に叫び、最も深い闇の瞬間もイエスさまは私たちを離すことはありません。肉体の痛み、心の痛み、その領域の中でも深く、豊かにイエスさまを体験します。

 

わたしたちは、その十字架を通り過ぎ、わたしたちの肉体にある事柄を見つめながら、さらに深い領域に進みます。


エスさまの復活(深い恵みの領域)
わたしたちは、栄光に満ちた復活されたイエスさまと共に生きています。深い深いわたしたちの内側に復活のイエスさま、天の栄光に輝くイエスさまが共にいてくださっています。生涯、苦しみ、その道を通りながら、恵み豊かなイエスさまの栄光がわたしたちのうちに輝くようにして与えられたました。


外側のことから、内側のことに目を向けます。見える領域から、見えない私たちの本質的な領域に目をとめます。そのすべてがわたしの人生の全体像です。


エスさまを見つめるほど、人生は深く豊かになっていくのです。


エスさまのと一つになることができます。わたしたちの内側に栄光のイエスさまがかたちづくられ、豊かに存在しているからです。そこからあらゆる力が与えられます。知恵も、進む道もみことばの声を通して導かれます。安心して、過ごすことができます。外側で何が起きていても、内におられるイエスさまの愛は今日も豊かにわたしたちの家庭を照らし、生活の隅々に恵みを満たそうとしてくださるのです。


聖書からわたしたちの内側を見るようにインボディーを計測したら、豊かな恵みの果実がたくさん実っているのです。イエスさまの愛を取り、イエスさまの赦しを取り、イエスさまの平安を取り、今日ゆっくり味わいましょう。


 

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