海老名シオンの丘教会 366日バイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の366日みことばメール

9月13日 寂しさの克服

おはようございます。
日曜日、安らぎがあり、心が満たされる日でありますように。


☆今日の御言葉 使徒言行録8章26ー28節
『さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポは出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。』


ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、ある書物の中で、「孤独」と「寂しさ」の違いをこのように説明しています。『「孤独」とは、自分自身と豊かに向き合う時であり、「寂しさ」とは自分以外の何かに満たしを求めても満たされない心の状態をあらわしている。』


孤独には価値があり、孤独であるからこそ、自分の素直な部分を見つめ、他人との比較や、プレッシャーや圧力ではない、心の自由を得ることができることがあります。自分と仲良くなることは、私たちの人生を幸せにしていくことにつながっていきます。自分は自分でいいのです。そして、神さまの愛によって生きている、この瞬間こそ祝福の時なのです。わたしが神さまによって使命も生き方も与えられているのです。


なぜ、私たちは、寂しさや心の痛みを感じながら生きることがあるのでしょうか。今日のみことばに神さまの救いを求め続けた人が、「寂しい道」でイエスさまの福音に出会って洗礼を受けたときのことが記されています。人生が変えられました。どのように喜びが溢れる人生へと導かれたのでしょうか。


エチオピア人の女王の全財産を管理していた宦官が主人公です。宦官というのは、王室に仕え、女王の身の回りのことをすべてのお世話と財産の管理をしていました。特別な立場が与えられていましたが、当時はこの仕事につく人は、去勢させられてしまうということがありました。数千キロの旅をして、エルサレムで礼拝をして帰る途中でした。聖書の律法によると、去勢したものは神の民につながることができない、と言われていました。(申命記23:2)もしかしたら、礼拝に行っても、神さまの民にはなれないと、疎外感をもっていたかもしれません。


宦官の人は、「自分は神さまを礼拝する者にはふさわしくない」と寂しい気持ち、信仰を求めても、神さまに救われるようなものではない、という思いが心を痛めていたのです。しかし、イザヤ書には、驚くべき福音がありました。それが、「主がこう言われる。・・「宦官も言ってはならない、見よ、私は枯れ木だ(救われない)」と。」イザヤ書56章3節


エチオピア人の宦官は、このイザヤ書を心に留めていたと思います。やがて時がくる時に、救い主が与えられる時に、自分にも神さまの愛によって救われる道があるのだという望みがありました。その救いの主の約束の箇所を宦官は馬車の中で読んでいました。(イザヤ書53章)この箇所の書かれている意味を伝道者フィリポに尋ねるのです。フィリポは、イエスさまについての福音を知らせました。イエスさまを信じるならば、救われることを大胆に伝えたのです。


そして、洗礼を受けました。


寂しい道に歩いていた宦官が、イエスさまの福音と出会い、見捨てられる人は一人もいないこと、神さまの救いに相応しくないと思う必要は全くないこと、どの人も、何を経験していても、救いの恵みは、一人ひとりに豊かに与えられることを経験したのです。


寂しさは無くなり、孤独でありますが、悲しみはありません。
「フィリポは宦官に洗礼を授けた。・・水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。」(8:39)


私を救ってくださったイエスさまが今日も一緒です。


f:id:dailybreadzion:20200913081238j:image