海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

10月4日 心は愛で満たされます

おはようございます。
秋の爽やかな風が心にも安らぎを与えられますように。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書19章9−10節
『イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。』


聖書にザアカイという人が登場します。ザアカイという名前の意味は、「正しい」「清い」という言葉から来ていますから、日本語では、「ただしくん」、「きよしくん」という名前でしょうか。


ザアカイが生まれた時には親の期待、社会でりっぱに生きて欲しいという願いが込められていたのだと思います。どのような生育過程であったかはわかりませんが、ザアカイは収税人となりました。当時の収税人は、皆から嫌われ、人々から徴収したお金の一部を騙しとり、不当に利益を得ていました。


ザアカイの親の気持ちであったらどうでしょうか。悩んでいたかもしれません。思うように子育てできなかったと自分を責めてしまうでしょうか。

 

子育て情報誌「コミュニケーション」でクリスチャンの精神科医である佐々木正美先生が次のように書かれています。


「親の前で甘えられる子は、小さなたくさんの安心を心に刻みながら、すこしずつ自分に自信を貯えているのでしょう。子どもが親に甘えられず先生に甘えていたり、家ではいい子なのに外ではわがまま放題の場合、その子は、「こっちを見て」「自分を愛して」というサインを一生懸命出しているのだと、気づいてあげたいものです。」


ザアカイは、イエスさまが通り過ぎる時に、皆は静かにイエスさまの姿を見ていたのですが、突然木に登りました。皆はジロジロと批判するような眼差しでみていたでしょう。「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。」(19:4)周りの人たちは、困った人だと呆れたかもしれません。誰かが注意したかもしれません。でもそれは、ザアカイの心の寂しさであったのでしょう。「自分を愛してほしい」という思いが、木に登るという行為だったのでしょう。

 

エスさまは、そのザアカイを見つめました。皆が迷惑しているからやめなさないと、しつけをするようにはしませんでした。じっと見つめたのです。語らずとも、「どうして欲しいの?」という眼差しを向けたのです。ザアカイは、心に寂しさを抱えながら生きていたのです。

 

ザアカイも心をイエスさまに向けたでしょう。そして、イエスさは、ザアカイの気持ちを汲み取ったのです。「急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に止まることにしている」(19:5)突然のイエスさまの言葉です。でもそれは、突然ではありませんでした。イエスさまとザアカイの心の対話があったのです。だからこそ、イエスさまは、ザアカイの気持ちを受け止めて、ザアカイの家に泊まることにしたのです。


愛を飢え渇く心があります。お金でも、友情でも、埋めることのできない心の空洞です。それは、イエスさまの愛でしか満たすことのできない心の一部分があるのです。周りの人たちは、イエスさまに非難の声を浴びせます。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)ザアカイは、そのように人々に思われていたのです。しかし、もう関係ありません。イエスさまが心の友となってくれたのです。あの木に登る行為を否定しなかったのです。心の叫びを受け止めてくれたのです。ザアカイは、喜んでイエスさまを迎えました。


エスさまは、ザアカイとゆっくり食事をしました。話を聞きました。時間がたつにつれて、ザアカイの心は愛に満たされていったのです。変わりたいと思っても変わることができなかったザアカイが、イエスさまの愛で変えられたのです。「財産の半分を貧しい人々に施します。誰かからでも、だまし取ったものは、それを四倍にして返します。」(19:8)


私たちもザアカイのように木に登るようにして、自分の心の渇望を何かで満たすために、「自分を見て」「自分を愛して」と心が叫ぶかもしれません。イエスさまは、その心をじっと見つめて、わたしはあなたの側にいると呼びかけてくださるのです。豊かにそのままで愛されているのです。


「今日、救いがこの家を訪れた!」(19:9)
神さまの救いは、その場所に訪れます。


大きな愛の御手が今日の日を満たしているのです。


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10月3日 今日は幸せの日

おはようございます。
一度限りの人生を喜び楽しみます。


☆今日の御言葉 詩篇32編1−2節
『幸いな者、背きの罪を赦され、罪を覆われた人。幸いな者、主に過ちをどがめられず、その霊に欺きのない人。』


誰かの必要のためにいつも一生懸命であったり、自分以外のことで大変であったり、日々たくさんの労苦を担って生きていることがあると思います。どんなに助けられているでしょう。お疲れさまです、そしてありがとうございます。自分を大切にするためのお時間がもてますように。自分を労わり、時には自分を喜ばせるような安らぎの時がありますように。


日々幸せを実感するためには、自分の五感に心地よいことをすることが良いみたいです。好きなものを見たり、感じたり、心地よく感じる音楽や音を聞いたり、心安らぐ匂いを嗅いだり、元気になる美味しいものを食べたり、自然に触れてみたりと、体や心で感じる心地よさが今日の日を幸せにしてくれます。ゆっくりと深呼吸して心を満たしましょう。

 

聖書は、どうでしょうか。神さまを信じると幸せになるでしょうか。今日のみことばの中に「幸せな者」と繰り返し語られます。


聖書の5つの幸せ(五感)を見てみましょう。


1、耳で聞く、幸せ
神さまはいつでも私たちに語りかけています。時には優しく、時には力強く、私たちが迷うことがなく、落ち込み、傷ついたままでいることがないように、神さまの愛のみことばは届けられるのです。みことばはは、言葉を超えて、私たちの存在を包んでいます。「これは私の愛する子」(マタイ3:17)あなたはどれほど愛されている存在でしょうか。


2、赦されている、幸せ
赦しという言葉は、目と関係しています。神さまは、人の罪を断罪して、滅びに行く最悪なものとして見ません。罪を自覚させつつも、うなだれる頭をあげて、赦しの中で天を見つめて生きるようにと呼びかけてくださっています。イエスさまは、十字架の上から私たちを見つめておられます。「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)私たちはいつも赦され、祈られている存在です。


3、覆われる、幸せ
どのように自分の願う幸せを手にすることができるでしょうか。良いことを求めて生きようと思っても、自分の内側ではそう生きることを妨げる何かがあるのです。自分の弱さ、暗闇だけを思うと幸せは実感できません。私たちが何を抱えていても、自分が変わることができなくても、覆われて、包まれて、神さまの愛の中に生かされている尊い存在なのです。「あなたの罪を思い起こすことはない」(イザヤ43:25)私を包む神さまの愛を感じます。


4、咎められない、幸せ
私たちは、いつでも自分を責めることを得意としてしまうことがあります。人の言葉や振る舞い、情報や状況を通して、自分の存在価値を否定してしまいます。過ちに対して救いようがないと咎め続けてしまいます。神さまは私たちをいつでも立ち上がらせ、成長させてくださいます。たとえ失敗をしても人生の道が閉ざされることは決してないのです。「それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)神さまによってどこからでもやり直すことができます。


5、欺く必要のない、幸せ
自分を守ることに一生懸命になることがあります。正直に、素直に生きているだけでは、この世を賢く生き抜くことはできないと思うかもしれません。背伸びをしたり、誇らしい姿を見せたり、本当の自分とはかけ離れてしまうことがあるでしょう。そのままでいいのです。神さまに愛されて素直に生きる人が本当に祝福され、幸せなのです。幼子の心にはなれませんが、神さまの前でいつでも幼子のようでありたいのです。「神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)純粋に両手をあげて神さまに何でも求めましょう。


今日の日の豊かな幸せを心よりお祈りしています。
 

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10月2日 後ろ向きでも大丈夫

おはようございます。
祈ったことはすでに神さまの手の中にあります。


☆今日の御言葉 ヨハネ20章27−28節
『それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。』


1870年生まれのドイツの彫刻家であるエルンスト・バルラハという方がいます。戦争や貧困、飢餓で苦しむ人々の心の情景を芸術作品として残しました。戦争の悲惨さ、悲しみをテーマにしていたので、ナチスに迫害され、多くの作品が壊されてしまったようです。それでもいくつか残っている芸術作品があります。その中で、「再会」というテーマで、復活のイエスさまがトマスを抱きかかえている木彫りがあります。その木彫りには、傷ついたイエスさまの姿、そして、苦しみや痛みを耐え抜き、イエスさまとやっとの思いで涙の再会をするトマスが姿が表現されています。イエスさまはトマスを傷ついた手で包んでいるのです。


人の心は、見ることも、また理解することも難しいことがあります。心の深い部分の悲しみは、自分でも表現することができないものです。もし、今の心情、思いが木彫のようにあらわされたらどのような姿でしょうか。


その姿のままで復活のイエスさまに出会うことができます。
どのように復活を実感できるでしょうか。私たちの否定的と思っていた感情が変えられていきます。


・疎外感は神さまの愛に包まれます
トマスは、最初、皆が集まる場所にはいませんでした。周りの人たちがイエスさまの復活を見て喜んでいます。興奮しています。しかし、トマスの心は冷めていました。ほかの弟子たちが、「私たちは主を見た」とトマスに言いました。トマスは「あの方の手に釘の痕を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」答えます。強気な言葉のように見えて、そこに寂しさ、痛みがあります。イエスさまはそのトマスを愛の中へ招かれるのです。


・疑いも肯定的な感情です
トマスは決して、不信仰でも疑い深い人ではありません。迷いがあって当然です。寂しさを激しい心の感情で表現したくなるほど、やりきれない気持ちを抱えていたでしょう。心を静めてくださるイエスさまです。イエスさまは力強く私たちに寄り添っていてくださっています。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」とトマスをそば近くに呼び寄せたのです。イエスさまは、トマスの心の動きを知っていてくださっているのです。


・後ろ向きでも大丈夫です
今日、私たちも心のわだかまり、前向きにはなれない問題を抱えているかもしれません。表向きは、何事も問題がないように振る舞うことができても、だれにも言えない心を抱えています。後ろ向きでも大丈夫です。イエスさまの手につながれている今日の日は、どこを歩いても、何かを見て動揺していても、私たちを背負い、守り、祝福の道へと導いてくださるのです。


エスさまの復活を信じる道があります。自分の本当の姿を知ることです。その本当の自分の姿がどんなに弱くて、傷ついていても、生かされ、愛されていることが心に伝わる時に、イエスさまの復活の命が宿っていることを知るのです。


その時、「私の主、私の神」と呼ぶことができるのです。その思いが湧き上がってきます。私の傍にいて、すべてを支えておられる「私の主、私の神」なのです。


今日1日、「私の主、私の神」と呼ぶ日でありますように。
 

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10月1日 よく歩いて来られました

おはようございます。
今年もあと3ヶ月ですね。
お疲れが溜まってくる頃です。休息も喜びも与えられますように。


☆今日の御言葉 申命記8章4ー5節
『この40年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練することを心に留めなさい。』


メモワール(回顧録)という言葉を聞きました。自分の人生を振り返り、思い返してみることを通して、今の自分の人生の喜びや価値を実感することができるものです。自分一人で振り返ろうとすると、「たいした人生を歩いてこなかった」とか「良いことはなかった」とか、「無意味な人生だった」と内なる声が聞こえてしまうことがあります。しかし、真実は決してそんなことではありませんでした。


私たちの経験してきたこと、挫折したこと、失敗や辛い出来事もありました。でも、よくここまで歩いてきました。悲しみを抱えながらも諦めることをしませんでした。あの苦難の中でも守られてきました。尊く、素晴らしい価値がその人生にはありました。


イスラエルの民にとっての40年は、砂漠を旅する過酷な人生でした。決して良いものばかり、決して楽しいことばかりがあったわけではありません。むしろ、飢えることも、渇くことも、悩むことも後悔することもありました。それでも、神さまの絶妙な助けがあったのです。守りがあったのです。愛され、支えられてきたのです。


荒れ野のメモワールは、神さまの恵みの回顧録です。
それと同時に未来予想図です。これからも守られます。


・海が割れた時はいつでしたか?
イスラエルの人々は海の中の乾いたところを進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。」(出エジプト14:22)
とても大きな試練と恐れの中にいました。八方塞がりという行止りを経験することがあったかもしれません。その先の希望が見えずに、ともすると、このまま絶望という闇に覆い尽くされて身動きができなくなってしまうような状態でした。人生を振り返り、この試練を思い起こすことは辛いかもしれません。神さまは、今に至るまで、私の歩みを導き、手をつなぎ共に歩み、私たちを支えてくれました。私たちも通ったのです。あの恐れの中を。神さまの大きな手に握られていた温もりを思い起こします。


・岩から水が出た時はどんな時でしたか?
「私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む。」(出エジプト17:6)
感情を取り乱したことがありました。良いことを思えずに、後悔や恨みが心を支配して苦しかったのです。八つ当たりをしたり、自分の感情を鎮める手段を知りませんでした。それでも、寄り添って離れない友がいました。祈ってくれる人がいました。諦めずに信じてくれる人がいました。神さまはその一人ひとり、一つひとつの状況をとおして、私たちを守っていました。渇くことがないように助け、岩から水が出るように、心の満たしや平安が与えられて今があります。


・心から離れないみことばはありますか?
「私は密雲に包まれて、あなたのもとにやって来る。私があなたと語るのをこの民が聞き、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」(出エジプト19:9)
その時、雲が覆いました。その雲は、地上のあらゆる価値を見せないようにしました。その雲はただひたすらに神さまを求める心を与えてくれました。不思議なことです。私がなぜ、神さまを信じようと思ったでしょうか。なぜ、このみことばメールを読むようになったでしょうか。神さまの愛の働きが私たちの上に豊かに現されたのです。みことばは目に見える現実を超えた、大きな祝福で満たしてくださっているのです。


「あなたの神、主を思い起こしなさい・・」(申命記8:18)


私たちは人生は、荒れ野のような歩みであっても、恵みは十分なのです。涙があっても希望があるのです。辛さがあっても、祝福があるのです。これからまだ見ていない恵みの世界があります。これからも神さまは、海の道を歩ませ、岩から水を与え、神さまの愛のみことばを語り続け、祝福で覆っていてくださるのです。


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9月30日 この上ない良い友

おはようございます。
神さまの守りを実感する日でありますように。


☆今日の御言葉 詩篇119編159−160節
『私がいかにあなたの諭しを愛しているか見てください。主よ、あなたの慈しみにふさわしく私を生かしてください。あなたの言葉の一切が真実です。』


賛美歌21の493番に「いつくしみ深い」という賛美歌があります。よく歌われる曲で、クリスチャンではない人も知っている人が多い賛美歌です。この賛美歌の作詞者ジョセフ・スクラヴィンという方は、1819年アイルランドに生まれました。その後、カナダに移住します。結婚式の直前に婚約者を事故で失ってしまうという悲しみを経験しました。深い悲しみを経験した人は、深い祈りの人になりました。


そして、「いつくしみ深い」の賛美歌は、故郷アイルランドにいる病気のお母さんを慰めるために作った曲であったと言われています。歌詞になる前の詩の言葉を目にしました。


〝キリストこそ、この上ない良い友。私たちのあらゆる罪と悲しみを荷われる。祈りによってすべてのことを神に告げることができるのは何たる特権。おお、私たちがしばしば心の平和を失い、負わずともよい苦痛を負うのは、みな祈りによってすべてのことを神に告げないからである。〝


私たちも今日、何をしていても、どこにいても、イエスさまはこの上ない良い友として一緒に歩いてくださっています。良き友イエスさまに何でも話してみましょう。


・祈り尽くしてみる
祈りながらも、恐れや不安が心を覆ってしまうことがあります。まだまだ祈ることができるようです。まだまだすべての思いが祈りになっていないようです。時間がかかってもいいのです。喜びも悲しみも、今日の小さな感情の動きも心に触れている思いも、祈りに変えています。難しいことではありません。思い、感情、その気持ちに「神さま、」と呼びかけます。それでも心が祈りに向かない時には、みことばを読みます。みことばは、心を開かせ、神さまへと向かわせてくれるのです。


・一緒に歩いてみる
祈りの道があります。自分の生涯、今日の日、今この瞬間にいつもいつくしみ深いイエスさまの眼差しが注がれていることを意識します。上を見上げてもいいです。横を見てもいいです。このことをしている時も、あのところに行く時も、どこにいても、私たちは守りの中にいます。たとえ、恐れが迫ってくるようなことがあっても、今は現実の重荷が軽くならないと思うことがあっても、祈りの道を歩く人に注がれるイエスさまの慈しみ深い眼差しは離れることはありません。待っていてください。やがて大きな喜びの出来事を見るようになります。


・アーメン(はい、と言う)
「あなたの言葉の一切が真実です」(詩篇119:160)この言葉は、私たちがお祈りする時の最後に言うフレーズです。アーメンというのは、神さまが私たちに口に授けてくださる恵みの言葉です。アーメンと告白する者に、その真実が生活の中に実現していくのです。いつでも「アーメン(はい)」といいましょう。心が揺れてしまう時、恐れや不安に流されてしまうような時、未来の希望を見失う時、「大丈夫、わたしは神さまに守られる、アーメン!」と祈りの宣言をしましょう。


祈りは聞かれ、見たことも聞いたこともない、神さまの恵みを知るようなります。
 

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9月29日 慰めの人にしてください

おはようございます。
エスさまの優しさは安らぎを与えてくれます。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第二 1章3−4節
『私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみに深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』


体は、食べるものによって作られます。栄養のある食事は、その人を強い体にしてくれます。私たちが神さまの愛をみことばを通して、心で聞き続けると、その人は、慰めの人となります。


「慰め」と訳されるギリシャ語は、「パラクレシス」、その意味は、「傍らに引き寄せる」です。非常に深い神さまの愛を思い起こさせてくれます。


慰めは言葉ではありませんでした。イエスさまは、傷つき、慰めを必要としている一人ひとりをその傍らに引き寄せ、そのすべてを包んでいてくださるのです。イエスさまは、私たちをじっと見つめ、「よくがんばってきたね、よくここまで歩いてきたね、辛かったね」とそのすべてを包んでくださるのです。


慰めを十分に経験した人は、どうなるでしょうか。励ましの力を知るようになります。イエスさまは、一方の手で私たちを引き寄せ抱き、そしてもう一方の手である方向を指差しています。「さあ、行こう、あなたの未来には希望がある、大丈夫、あなたらしい人生の歩みがある、わたしが共にいる」と呼びかけてくださるのです。


今、この時代は、慰めの人が必要です。神さまの愛の中で慰めを経験した人は、誰かを慰める人になります。慰めは、傷ついている心を癒してくれます。慰めは、深い悲しみを抱えている人と希望の向かう道を歩き出します。


慰めの力を体験しましょう。心を静め、心を開き、神さまの愛をゆっくりと思い起こします。


1、愛に招かれています。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あながたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
休む場所があります。重荷負って苦労している人の痛みを知っていてくださるイエスさまです。愛の中に包み、癒し、共に悲しみ、共に痛んでいてくださるのです。神さまの深い愛を知る時、自分の本当の生きがいと喜びを感じるのです。


2、自分を取り戻しましょう
「主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)
鷲のように翼を広げて舞い上がることができます。風に乗って自由に羽ばたくことができます。それは、私たちの本当の姿です。急いで飛び立つ必要はありません。プレッシャで物事に取り組み必要もありません。祈りをもって、ゆっくりと神さまを待ち望み、日毎に新しい力を得ることができるのです。


3、慰めの人にしてください
「神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(第二コリント1:4)
神さまの慰めを経験すると、その人は、「慰めの人」になります。慰めの人は、痛みの人であり、傷ついた人であり、慰めの力を経験している人です。慰めの人は、この世の希望です。その人が家庭にいる時に、その人が地域にいる時、その場所に神さまの平和が広がるのです。


心を騒がせる情報からは少し距離を置きましょう。
平安を祈り求めています。
 

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9月28日 心の疲れをとる方法

おはようございます。
神さまは祈りの答えとして最上のものを用意しています。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書6章30節
『イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私は信じる者は決して渇くことがない。』


心の疲れは見えないものですが、一つのバロメーターは、不平や不満をいつも口にしてしまうということかもしれません。心の休息が必要です。心が疲れているだけですから、疲れがとれれば、愛と生きる喜びを感じることができます。


かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民の心は、不平と不満でいっぱいでした。モーセによって救い出され、荒れ野を旅していたとき、飢え渇き、非常に過酷な旅となったからです。イスラエルの民は、モーセに不満をぶつけました。


「あのときは肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えで死なせようとしています。」(出エジプト記16:3)


神さまは、優しい方です。すぐにモーセに語りかけました。


「今、あなたがたのためにパンを天から降らせる。民は出て行って、毎日、一日分を集めなさい。」(4節)


天から降ってきたパンを「マナ」と呼びます。この「マナ」は、ヘブライ語で「マン・フ」(これは何だろう?)という意味があります。不平と不満を抱いて毎日生きていたイスラエルの民は、ある朝、あちらこちらに降り注ぐマナを見ました。とても不思議に思いました。「これは何だろう?」と言い合ったのです。


マナはどんな味だったのでしょうか。その味は、「蜜の入った薄焼きパンのような味がした」(出16:31)とあります。とても美味しいごちそうですね。


このマナは、人々に喜びを与えました。心も体も満たされ、甘い薄焼きパンを食べて幸せでした。喜びが溢れ、渇きは満たされました。このマナは、毎日与えられたのです。


私たちの生活にも、毎日「マナ」が与えらえています。みことばは命のパンです。みことばは生きていて、実際の私たちの生活の中にも、みことばの約束が実現していると思える出来事を見せてくれるのです。


エスさまが私たちに与えてくださっている恵みは、その時には、良いものには見えないこともあります。「これは何?」「どうして?」「なぜ?』という思いが出て来る出来事があります。


私たちが抱えている祈りの課題の多くのものは、神さまが与えてくださっているマナです。その課題は、やがて、蜜の入った薄焼きパンを食べるような美味しさ、幸せになります。神さまは、わたしの祈りを聞き、守ってくださったと思える出来事をたくさん与えてくださるのです。

 

毎日、このマナは降っています。「なんで?」という思うことを手にとりましょう。祈りで育みましょう。諦めずに信頼しましょう。祝福を信じていましょう。神さまのしてくださる出来事を待ち望むようにして歩みましょう。私たちは、それぞれのマナを手にしているのです。そのマナは、私たちの心を豊かに満たす出来事になるのです。


今日のマナを見つけましょう。渇いた心は、神さまの恵みで満たされます。
 

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