海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

9月19日 力ある人よ

おはようございます。
生き生きの秘訣は、日々新しい言葉で満たされていることです。


☆今日の御言葉 士師記6章11−12節
『ヨアシュの子ギデオンは、ミデヤン人を目を避けるため、絞り場で小麦を打っていた。主の使いは彼に会うと、「力ある勇士よ、主はあなたと共におられます」と言った。』


今まで、あまり意識していなかったのですが、毎朝飲むコーヒーのカップを見ると、「スヌーピー」のキャラクターが描かれていました。スヌーピーが登場する「ピーナッツ」シリーズの作者、チャールズ・シュルツは、有名なクリスチャン漫画家です。以前、「スヌーピーたちの聖書のはなし」(ロバート・L・ショート著)を読んだことがあります。その中にこのような4コマ漫画がありました。


・喉の渇いたスヌーピーが、自分の水飲みボウルをくわえて水道までやってきます。・蛇口をひねって水を出すことができないので、呆然とするスヌーピー。・すると突然、雨が降り、水飲みボウルは雨でいっぱいになります。・そして喜んで水を飲むことができました。最後のコマに「このことは、しばらく考えてみなくちゃいけないな。」とつぶやきます。横には、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(ヨハネ黙示録22:17)のみことばが引用されていました。


しばらく考える・・この世の価値観と聖書の世界観の狭間に立っている姿が描かれます。


旧約聖書に出てくるギデオンも、この世の価値観と聖書の価値観の狭間に立っていました。


もし私たちが現実という世界観だけで生きていくことがあれば、水を飲みたくても、蛇口をひねる力がなければ絶望してしまいます。しかし、もう一つの世界が現されたらどうでしょうか。


水が天から注がれるという出来事を、神さまは今日の人生のあらゆるところで体験させ、私たちを喜びせてくださるのです。


ギデオンはどのように降り注ぐ雨のような神さまの恵みに出会ったでしょうか。(4コマで・・)


第一場面
ギデオンを取り巻く世界は困難の中にありました。自分の国が危機的な状況に置かれていました。攻めてくる敵は強く、太刀打ちできる方法はありません。逃げるように、隠れるように過ごしていました。ギデオンは人目を避け、隠れながら、絞り場で小麦を打っていたのです。
・・あまりに問題が大きく、課題が壁のように目の前に立つ時、立ち向かう気力は失せてしまいます。それは大切な時間です。自分の弱さを嘆く必要はありません。本当の愛と私を生かす豊かな力はどのようなものかを知ることができるからです。


第二場面
主の使いは、ギデオンのことを、「力ある勇士よ、」と呼びかけます。怯えているギデオンです。現実の脅威から身を潜めて生活しているギデオンです。決して力ある勇士には見えません。それでも、神さまは、私たちの内側の力を見ていてくれているのです。
・・ギデオンは驚いたでしょう。天から聞こえた言葉があまりに自分の今の姿とはかけ離れていたからです。現実の姿は、本当の自分ではありません。神さまは私の本当の姿をみことばを通して見せてくださるのです。「力ある人よ・・私があなたを守る」と。


第三場面
ギデオンは、立ち上がりました。まだ不安があります。なぜ、神さまが共にいる世界に苦しみや悲しみがあるのか疑問でした。暗闇を嘆いていました。しかし、神さまは、ギデオンの心を少しずつ、つくり変えてくださったのです。
・・自分を変える祈りがあります。自分の知恵や力も横へおきます。ゆっくり深呼吸をしながら、「神さま・・」と心を開き、「今日、必要な力を与えてください」と祈ります。


第四場面
今日、私たちにも語られるのです。「力ある人よ、神さまに愛されている大切な人よ・・大丈夫、わたしはあなたに力を与える、知恵も備える、祈りが叶えられて、今いるところに栄光を現す。」


今日、神さまの祝福を見ることができますようにお祈りしています。
 

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9月18日 失敗、失望はありません

おはようございます。
最上の神さまの祝福はこれからやってきます。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙1章13節
『あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。』


子どもがある先生から聞いたエジソンの名言を話してくれました。エジソンは、電球のフィラメントの実験を繰り返し、低価格で大量に生産できる電球を発明したことで有名ですが、大発明に至るまでに何千回と失敗を繰り返したと言われています。それでも「失敗」という言葉を使いませんでした。


「それは失敗ではなくて、その方法ではうまくいかないことが分かったという成功なんだ。」


一つの出来事を失敗だと決めつけて諦めてしまっていたら、その先の発明にはつながらなかったのでしょう。私たちの人生にもうまくいかないことがあります。一生懸命がんばっても、思い通りの結果に結びつかないこともあります。しだいに、心は消耗し、意欲は減退し、諦める心、疲れ果て暗い気持ちになってしまうこともあります。だれもが、もしかすると、人生のあるところで、この道を通らされるのです。


でも、どうでしょうか。もし、私たちの失敗も、後悔も、心配も、その道を通りながら、「大丈夫、保証する、それは最善になる」と真実な思いをもって、語りかけて確かな約束の言葉を聞いたら。


無責任な言葉でも、単なる気休めでもありません。保証があるのです。神さまが必ず守るという聖霊の証印を押してくださるのです。


その証明証書を手にしています。


・みことばの約束は実現します
「私の口から出る私の言葉も、空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし、私が託したことを成し遂げる。」(イザヤ書55:11)
神さまは、私たちの現実の悩み、痛み、課題を知っていてくださっています。問題が解決する前に、まずみことばが私たちに届けられます。現実の事柄が動くその前に、私たちの内側でみことばの恵みが動き出し、聖霊の慰めを実感できる時に、目に見える問題は変えられていくのです。


・祈りに導かれることはすべて守らます
「私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう。」(ヨハネ14:14)
祈る言葉は、神さまが私たちの心に願いを起こし、生み出されたものです。祈りの心が宿る時、祈りの課題を抱える時、それは、神さまの恵みが現される前触れです。祈りの火を絶えず灯しその時を待ち望みます。やがて、嘆きは神さまを讃える賛美に変わるのです。


・神さまの愛から決して離されません
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)
神さまの愛が輝く時、人の愛は冷たく感じることがあります。悲しくなったり、一人ぼっちのように感じてしまう時があるかもしれません。それは、神さまが真実の愛の中に私たちを招いている時です。「憩いなさい、休みなさい、愛を受けなさい」とイエスさまは、両手を広げて、私たちを包み込んでいてくださるのです。激しい嵐の中でも神さまの愛の懐は一番安全な場所なのです。


・苦難の中でも行き詰まりません
「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」(第二コリント4:8)
どんな苦しみ、痛みも、打ち倒されるような苦難を受けても、その都度、どんな場所からも、どのような状況からも立ち上がらせてくださる神さまの手があります。弱い時にこそ、神さまの力は強くなり、私が強いと思う時ほど、神さまの力が弱く感じるのです。倒されてもいいのです。力強い神さまが必ず勝利してくださるのです。


失敗、失望、後悔は、私たちの人生にありません。すべては神さまの恵みの出来事へとなります。
 

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9月17日 上を向いて歩こう

おはようございます。
収穫の季節、たくさんの良いことに満ちていますように。


☆今日の御言葉 エフェソの信徒への手紙1章3節
『私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、』


星野富弘さんというお方がいます。高校の体育の教師をされていましたが、体育の時間、宙返りに失敗して、首の骨を負傷し、首から下がすべて麻痺してしまい、以来、寝たきりの生活になってしまいました。たった一つ動く口を使って、病床で絵と詩を描き続けました。のちにクリスチャンとなり、多くの人々に希望と励ましを伝えています。


星野富弘さんが書かれた詩の中にこのような言葉があります。


「花が上を向いて咲いている。私は上を向いて寝ている。あたりまえのことだけど神様の深い愛を感じる」


病床で何もできなくなり上を向いて寝ている姿と、それでも、近くに飾られた花は上を向いて、力強くそして揺るぎなく咲いている姿に神さまの愛を感じたのです。


私たちは、様々な状態、状況を経験することがあります。うな垂れてしまうようなこと、これ以上先の希望を見ることができずに、立ち上がれないと思ってしまうこともあるかもしれません。


優しさと恵みに満ちたイエスさまは、私たちに近づき、大空を指差すように、肩を抱いて、一緒に立ち上がり、「天を見上げて、さあ歩こう」と励ましてくださっています。


エスさまは、天の豊かな祝福の約束を一つ一つ私たちに分かるように教えてくれます。


大きな空に象徴されるこの人生には、神さまの声が響いています。暗闇の夜を経験することがあっても、やがてその闇は、太陽の光に照らされるように、暗闇を通った人でなければ知ることができない神さまの恵みの出来事を見るようになります。


雲が空を覆うように、恐れや心配で心がいっぱいになってしまうことがあるかもしれません。でも、失望しないでください。雲の上には、太陽が輝き、いつでも光が差し込み、神さまが助け守っていてくださることを知ることができます。


重荷を背負って生きていく時、疲れ果ててしまようなこともあります。神さまは休息も与えてくれます。砂漠の中を歩く人も、豊かなオアシスを見出すようにして、私たちを愛して、特別に豊かな癒しと回復の時間を与えてくれます。


私たちの人生には、こうしていつでも、豊かに天のあらゆる祝福が恵みの雨のように降り注ぐのです。今日の日が祝福されますようにお祈りしています。


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9月16日 そのままが素晴らしい

おはようございます。
楽しみも喜びも神さまは与えてくださっています。


☆今日の御言葉 箴言23章26節
『子よ、あなたの心を私に委ねよ。そうすれば、あなたの目は私の道を喜ぶ。』


私たちは、みな違う性格をもっています。みなさんの性格はどのようなタイプですか?アメリカの心理学者、ゴードン・オールポートの研究に基づきビッグファイブが制定されました。ほとんどの人がどこかに当てはまるかもしれません。


1、神経症的傾向・・ストレスに過敏で不安や緊張が高い人
2、外向性・・興味関心が外の人や物に向けられている人
3、経験への開放性・・新しい経験にオープンで、好奇心が強く想像力が豊かな人
4、協調性・・利己的でなく、他者のことを思いやり、優しく共感性が高い人。
5、誠実性・・真面目で計画的。責任感があり勤勉。自己規律的な人。


私たちは、育った環境、そして経験してきたこと、もともとの性質などによって、今の私があります。誰とも同じでないことが本当に素晴らしいことです。そして、それぞれの性格、個性を認め合って、生きていくときに、一人一人が生きている喜びを感じることができるのです。


私たちの性格をさらに神さまの御心のために用いることができます。生きている意味を豊かに知ることができて、自分とは違う個性の人を尊重することができます。


「あなたの心を私に委ねよ」と語られます。それが私にとっての最高に祝福される道なのです。


神経症的傾向な人へのみことば
「あなたの重荷を主に委ねよ。この方はあなたを支え、正しき人を揺るがせることはとこしえにない。」(詩編55:23)・・とても深く生きることができて、人の気持ちをよく理解できる人です。


・外向性の人へのみことば
「主を待ち望む者は新たな力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく、歩いて疲れることはない。」(イザヤ書40:31)・・神さまから力を得て歩む姿は、多くの人の励ましとなります。


・経験への開放性の人へのみことば
「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたは知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を、荒地に川をおく。」(イザヤ43:19)・・神さまが共にいて、いつでも新しい出来事を見せてくれます。苦難を乗り越える力も知恵も与えられます。


・協調性を持つ人へのみことば
「幸いな者、弱い者を思いやる人は。災いの日に、主はその人を救い出してくださる。主が守り、生かし、彼はその地で幸いな人と呼ばれる。」(詩編41:2−3)・・神さまはいつもその愛の業を見ていてくださっています。イエスさまがいつでもその人を守ってくれています。


・誠実性を持つ人へのみことば
「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。」(ガラテヤ5:22−23)・・良い祝福の実を見ることができます。その人の労苦は決して無駄になりません。


神さまに祝福されている一人ひとりです。素晴らしい個性をもっています。自分のありのままを神さまに委ねて生きていくならば、さらに個性は輝き喜びが満ちていくのです。


今日の日が神さまの愛で守られますように。
 

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9月15日 神さまの眼差し

おはようございます。
神さまの愛は、海のように深く、空のように広く私たちを包んでいます。


☆今日の御言葉 イザヤ書66章2節
『私が目を注ぐのは、苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人。』


この時期、毎朝のランニングで収穫間近の稲穂を目にします。「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」という有名なことわざがありますが、とても美しい田園風景が広がっています。もう一つ、稲穂ではなく、麦の穂というのもあります。麦の穂は、稲穂のように実を垂らすことをせず、まっすぐに空に向かって伸びています。「麦穂両岐」(ばくすいりょうき)という熟語がありますが、麦の穂は一本の茎が二股に別れ、しっかりと支え合うのでまっすぐに伸びることから、豊作のしるしとされているようです。


稲穂も麦穂も、ともに神さまにつくれれた美しく、豊かな人間の姿にもつながっているように思いました。
人生の実りに感謝して、頭を垂れ、神さまを礼拝するときがあり、しっかりと立つために共に祈りによって支え合って生きるときがあります。


太陽の光のような神さまの眼差しが注がれています。その愛の中で、人は豊かに育まれるのです。
神さまが、私たち一人ひとりの人生に目をとめてくださっています。その眼差しは豊かで、あたたかく、私たちのすべての包んでいるようです。


どのような場所から立ち上がることができます。何を経験していても、神さまの慰めは届けられます。どのような人に神さまは今日目を留めていてくださっているでしょうか。

 


・苦しむ人
苦しむ人は、深い人生を歩いている人です。その深さは、谷底に下っていくような辛さ、悲しみを抱えています。下へ下へ根を張っているような時間です。何も良いものが見えないかもしれません。祝福と思える実を見ることができないかもしれません。しかしやがて、苦しむ人は知るのです。心は神さまの愛で満ち溢れ、谷底にある宝を発見し、自分の思いや力を超えたところにある神さまの愛と平和と喜びの実が結ばれていくのです。


・霊の砕かれた人
新しいものにつくり変えられるときに、人は砕かれます。今までの常識、思い通りにいかないこと、自分の力の範囲を超えて神さまが私たちの人生に恵みを満たそうとするときに、私という器を砕かれ、もっと大きな、広くて深い器へと神さまの手によってつくられるのです。それは、私たちの思いを超えた大きな祝福の出来事を見るためです。自分を誇ることよりも、神さまを賛美して生きる道に歩ませてくださるのです。


・みことばにおののく人
危機や困難にあるとき、本当に大切なものだけが残されます。何が一番重要であったのかということを気づくことがあります。人間の力も成功も、健康も富も、それは最後まで残るものではありません。みことばは、弱さの中でこそ、力強く私たちの人生を支えてくれます。私たちの外側が衰えることがあっても、内側は輝き続けます。


神さまの眼差しが今日の私たちの人生を守っていてくれています。

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9月14日 幸せ以上に喜びを

おはようございます。
恐れなくて大丈夫!ー神さまからの伝言です。


☆今日の御言葉 ガラテヤの信徒への手紙1章4節
『キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。』


メンタルヘルス・カウンセラーであり、牧師である矢吹ケン先生の著書「なぜ、良い人に悪いことが起こるのか」の中に、このような言葉がありました。


「喜びとうつとは、心の中で共存しません。一つがやって来ると、もう一つは去っていきます。幸せと喜びは違うと言われています。幸せは状況が作りますが、喜びはそうではありません。・・私たちが自分の人生を主に委ねる時、喜びが湧き上がって来ます。私たちが主に感謝を捧げる時に、心に喜びが戻り、うつは引き下がります。」


季節が移り変わっていく時に、心身のバランスを崩しやすくなります。自分という存在が虚しく思えてしまったり、この世のスピードがとても早く感じて、周りで起きていることを見ているだけで疲弊してしまいます。弱さや欠点に目がとまり、人と比較するようになり、自分の本当の姿を見失ってしまいます。


私たちは、自分自身が感じている現実をすぐに変えることはできません。自分の思う幸せを願っても、そのとおりにならないことがあります。それでも、希望があります。神さまが私たちに備えてくださる喜びがあるからです。この喜びは、どのような現実の中でも奪い取られることはありません。この喜びは私たちの心に宿り、尽きることのない湧き水のように、いつでも人生を満たし、神さまに愛されて、今日生かされていることを思い起こさせてくださるのです。


どのように喜びを手にすることができるのでしょうか。


1、みこころに触れる
父なる神さまの御心があります・・それは、私たちを苦しみや悲しみ、罪の悩みから救い出そうとする、あたたかくそして力強い聖なる思いです。聖書のみことばの中に、神さまの心があります。みことばにいつでも触れるようにして生きるならば、私たちの内に神さまの愛が湧き水のように溢れてでてくることを経験します。その湧き水は溢れ、神さまにある喜びの種が根を広げ、芽を出し、祝福の実となって人生を楽しませてくださるのです。


2、絶望の道はない
私たちの人生の道は今日も続きます。一歩ずつ、ゆっくりと、一日の労苦はその日だけです。明日のことはまた明日が心配しますが、一つひとつの出来事の中に神さまの助け、備えは与えられます。海の中にも道をつくってくださる方です。十字架の道の先にも命の道を開いてくださる方です。自分はもうダメだと思う必要はありません。自分の願い、思い、夢が断たれてしまったと思う時こそ、新しい神さまの祝福の業に出会うのです。


3、プレゼントを手にしながら
私たちは何を手にしている時が一番の喜びでしょうか。もしかしたら、私たちを幸せにしてくれるものはたくさんあるかもしれません。この世の中には幸せと感じられるものに満ちています。しかし、その多くのものは、時間がたつと泡のように消えてしまうものばかりです。決してなくならないもの、人生の最後まで持ちつづけることができるもの。尽きず、消えず、いつでも喜びを与えるイエスさまが一緒です。


今日、喜びを感じられることがたくさんありますように。心からお祈りしています。

 

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9月13日 寂しさの克服

おはようございます。
日曜日、安らぎがあり、心が満たされる日でありますように。


☆今日の御言葉 使徒言行録8章26ー28節
『さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポは出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。』


ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、ある書物の中で、「孤独」と「寂しさ」の違いをこのように説明しています。『「孤独」とは、自分自身と豊かに向き合う時であり、「寂しさ」とは自分以外の何かに満たしを求めても満たされない心の状態をあらわしている。』


孤独には価値があり、孤独であるからこそ、自分の素直な部分を見つめ、他人との比較や、プレッシャーや圧力ではない、心の自由を得ることができることがあります。自分と仲良くなることは、私たちの人生を幸せにしていくことにつながっていきます。自分は自分でいいのです。そして、神さまの愛によって生きている、この瞬間こそ祝福の時なのです。わたしが神さまによって使命も生き方も与えられているのです。


なぜ、私たちは、寂しさや心の痛みを感じながら生きることがあるのでしょうか。今日のみことばに神さまの救いを求め続けた人が、「寂しい道」でイエスさまの福音に出会って洗礼を受けたときのことが記されています。人生が変えられました。どのように喜びが溢れる人生へと導かれたのでしょうか。


エチオピア人の女王の全財産を管理していた宦官が主人公です。宦官というのは、王室に仕え、女王の身の回りのことをすべてのお世話と財産の管理をしていました。特別な立場が与えられていましたが、当時はこの仕事につく人は、去勢させられてしまうということがありました。数千キロの旅をして、エルサレムで礼拝をして帰る途中でした。聖書の律法によると、去勢したものは神の民につながることができない、と言われていました。(申命記23:2)もしかしたら、礼拝に行っても、神さまの民にはなれないと、疎外感をもっていたかもしれません。


宦官の人は、「自分は神さまを礼拝する者にはふさわしくない」と寂しい気持ち、信仰を求めても、神さまに救われるようなものではない、という思いが心を痛めていたのです。しかし、イザヤ書には、驚くべき福音がありました。それが、「主がこう言われる。・・「宦官も言ってはならない、見よ、私は枯れ木だ(救われない)」と。」イザヤ書56章3節


エチオピア人の宦官は、このイザヤ書を心に留めていたと思います。やがて時がくる時に、救い主が与えられる時に、自分にも神さまの愛によって救われる道があるのだという望みがありました。その救いの主の約束の箇所を宦官は馬車の中で読んでいました。(イザヤ書53章)この箇所の書かれている意味を伝道者フィリポに尋ねるのです。フィリポは、イエスさまについての福音を知らせました。イエスさまを信じるならば、救われることを大胆に伝えたのです。


そして、洗礼を受けました。


寂しい道に歩いていた宦官が、イエスさまの福音と出会い、見捨てられる人は一人もいないこと、神さまの救いに相応しくないと思う必要は全くないこと、どの人も、何を経験していても、救いの恵みは、一人ひとりに豊かに与えられることを経験したのです。


寂しさは無くなり、孤独でありますが、悲しみはありません。
「フィリポは宦官に洗礼を授けた。・・水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。」(8:39)


私を救ってくださったイエスさまが今日も一緒です。


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