海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

9月9日 幸せ時間を大切に

おはようございます。
お祈りしていることが少しでも良い方に導かれる日でありますように。


☆今日の御言葉 使徒言行録6章2−4節
『12人は弟子たち全員を呼び集めて言った。「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこで、きょうだいたち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人探しなさい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りの御言葉の奉仕に専念することにします。』


先日、上智大学の名誉教授であるアルフォンス・デーケン先生が天に召されたことがテレビでも放映されていました。カトリックの司祭として日本に来られて、「死生学―死に向き合うための学問」に取り組まれました。デーケン先生の書かれた文書の中でとても励まされる言葉があります。


ギリシャ語では時間をクロノスとカイロスの2つの言葉で表します。クロノスは物理的な時間の流れ、年月、日、分など量的な時間を意味します。カイロスとは一度だけ来る二度と来ない決定的な瞬間、かけがえのない質的な時間をさします。例えば、好きな人と一緒にゆっくりコーヒーを飲む2時間は長く感じません。逆に大雨の最中に傘なしで30分バスを待っている時間はものすごく長く感じます。私は、中年期、あるいは晩年期、このカイロスー質的時間について考えることをおすすめまします。」


質的時間とはどのようなときなのでしょうか。それは、私たちにとっての安らぎと充実と、幸せを感じられる時間です。何よりも私を愛し、今日を生かし、すべても守られる神さまを近くに感じられる時です。私たちは、日々たくさんの時をすごしています。大変な時もあり、向き合うことが困難な現実もあります。疲れたり、嫌になったりする時もあるでしょう。


でも、もし私たちが、カイロスー質的な時間の価値を知っているならば、日々いつでも訪れる量的時間ークロノスだけに翻弄されることなく、自分と神さまとの時間の中で豊かな心が与えられて過ごすことができるのです。


使徒言行録の時代の教会で、時間の配分に対しての問題が生じました。「その頃、弟子たちが増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられているというのである。」(使徒言行録6:1)教会に人が増えてきて、あらゆる必要が生じていました。忙しくなり、走り回り、それでもすべての必要に答えることができませんでした。混沌としていたのです。


お弟子さんたちは、時間を整理しました。問題に慌てることなく、質的時間ーカイロス、量的時間ークロノスの価値を整えていったのです。


祈りとみことばの時間ーカイロス
一日の中でも、心のある部分には、いつでも祈りとみことばを待ち望みます。私たちは、神さまを求める存在です。心には、神さまの愛でしか満たされない部分があります。混乱していると思う時、疲れ果てて何もよいものがないと思ってしまう時、私たちは、量的時間の中で疲れているのかもしれません。その時には質的時間を優先します。立ち止まり、祈り、みことばから聞こえる慰めの言葉、励ましと力を感じるまで静まります。祈りとみことばを生活の中心に置きます。心が自由になり、事柄が整理され、今日するべきこと、知恵や豊かな導きが与えられるのです。


生活の時間ークロノス
多くの時間を私たちは、生活の時に使います。たくさんのやるべき事があります。長く訪れるこの時間をどのように過ごすことが良いのでしょうか。この生活の時間には、霊と知恵が必要です。霊とは、自分の思いを超えて、神さまの御心を祈り求める人の中に注がれる力です。知恵とは、イエスさまなら、この状況やこの課題の中で、何を一番大切にするだろうかという思いに導かれることです。その生活の時間は、ひとつひとつが決して空しい時ではなくて、かけがえのない神さまの恵みが現されることを経験する時にもなっていくのです。


私にとっての価値ある喜びの時間、幸せを感じる質的に非常に豊かなひと時を意識する一日でありますように。

 

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9月8日 見て、聞いて、語る

おはようございます。
疲れた人、重荷を負っている人、共にイエスさまのところへ行きましょう。


☆今日の御言葉 コロサイ2章21節
『「手を付けるな、味わうな、触れるな」などどいう規定に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなるもの、人間の戒めや教えに基づくものです。』


小学生の頃に修学旅行で、日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」で有名な猿の彫刻の置きものを見ました。三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいます。由来や意味については諸説あるようですが、何も見るか、何を聞くか、何を語るか、に注意しながら、人生をよりよく築き上がるために必要な教えがあったのでしょう。


聖書の中にも、この三猿ではありませんが、「手を付けるな、味わうな、触れるな」という言い伝えを固く信じて生きている人たちがいました。それは、神さまを深く信じるために、この世の中と距離をとり、信仰とは全く関係のないことに関わらないようにしようとする教えでありました。信仰と世俗ということが明確に分けられていたのです。イエスさまは、「この世を愛されました・・」。そこにあること、住む人、汚れや暗闇の現実、決して綺麗なことばかりではないところにイエスさまは来られたのです


クリスチャンになるということは、決して制限や戒めや、不自由さの中を生きることではありません。聖書という枠組みが私たちの人生を縛り付けることでもありません。信仰的な生活と世俗との生活と分けて、区別して、自分や他の人を非難してしまうこともあります。この世界の音楽も、スポーツも、体の健康のために取り組むことも、趣味も楽しみも、すべて含めて、神さまにあって私たちの人生を喜ばせてくれるものなのです。


狭い価値観で生きる必要はありません。知恵や正しい枠組みは必要かもしれませんが、もっと神さまの愛によって押し広げられる豊かな心をもって歩いていくことができるのです。私たちは様々な現実に生きています。確かに目を背けたくなるもの、見たくないこと、そのようなものから離れる知恵を持ちながらも、イエスさまの視点でものを見ることができる私にしてくださるのです。この世では不必要と思うことも神さまは用いることがあるのです。私の考えでは最悪と思えることとも、最善のことに導かれることがあるのです。イエスさまは慈しみ、守り、回復させ、良きものにつくりかえることができるのです。


嫌な言葉は、聞きたくないのですが、たとえよりよりことではなくても、気にする必要はありません。それは、やがて私のうちには留まらず、なくなってしまうものです。みことばから聞こえてくる神さまの愛だけが心にとどまることを祈り求めています。


手を触れたくないこと、関わりたくないこと、何かをしたら悪いことが起きるのではないかという強迫観念、心配や挫折を恐れる心、マイナス方へと心が向かってしまうことがありますが、イエスさまは、私たちの手をとっていつでも、「恐れなくて大丈夫」と呼びかけてくれるのです。それには理由があります。私たちが弱くても、神さまが強いお方であるからです。私たちが挫折しても、その道は決して絶望に終わることはありません。


「すりきれそうな神経や身体的な弱さや鬱状態を、自分は霊的ではないのだと勘違いしてはいけない。祈るよりも睡眠をとるほうが、心を探るよりも身体を休めて気晴らしをするほうが必要なことがしばしばある。」(ルイス・スペリー・チャイファー アメリカにあるダラス神学校の創立者
 

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9月7日 人生を支える3つの柱

おはようございます。
台風の被害から守られますようにお祈りしています。


☆今日の御言葉 ヨハネの手紙第一 2章5節
『神の言葉を守るなら、その人の内に神が愛が真に全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。』


クリスチャンで精神医学を学ばれた田中晢先生の書物にこのような言葉がありました。「心にも形があります。形あるものは、だいたい骨組みがあります。・・たとえば、割り箸を立てようとするとき、一本では立つことができません。それでは、二本ならどうでしょうか。二本でも、まだ立たせることができません。最低、三本は必要になります。・・同じように心が自分で立つ場合にも、柱となるものが最低でも三本は必要なのではないかと考えたわけです。1、社会性と対人行動 2、自尊感情と自己受容 3、自己統制による心理的安定・・」


みことばから語られる神さまの愛は、包括的です。人間存在のすべての必要を満たすことができます。社会との関わりや自分の内面を見つめること、どう生きて行くかという人生の目的を知ることができます。それは、みことばの中から神さまの愛の豊かさが私たちに満ち溢れるからです。


3つの柱は具体的にどのように今日の私の生活を支えるのでしょうか。


1、祈りの力・・対人行動
人との関係の間に、みことばを待ち望みます。誰かの感情、人の思いが強くあったとしても、私の心は神さまの愛のみことばの中に置かれていることをイメージします。迷う時には、神さまは知恵を与えて良い道を示してくださいます。たとえ、人間関係のトラブルや難しい問題が生じていても、必ず解決の道は与えられます。待ち望み、信頼します。祈りを心の片隅に置いて、いつでも神さまを呼び求めます。私たちの人生の土台は、みことばによってしっかりと支えられます。


2、神さまから与えられる自信・・自尊感情
神さまの愛は、私たちを元気にしてくれます。神さまがどんな時にも共にいてくださると思う時に、心はしなやかに、物事には柔軟に対応する知恵が与えられます。どのように問題を解決しようかという方法論に多くの時間をとるよりも、わたしはどのように神さまに愛されていて、神様が何をしてくださるかという存在論を大切にするようになります。その時、力が与えられ、「大丈夫!」という自信を持つことができるのです。


3、なんとかなる・・心の安定
しなやかな心は、風が吹いて揺れることがありますが、打ち倒されることはありません。もうダメだと思う必要はありません。自分の弱さだけを見つめて諦める必要はありません。すべては、人生の糧となります。失敗しても、立ち上がる力を神さまは与えることができるお方です。神さまの内から溢れ出る命によって、私たちはいつでも再生され、回復され、前を向いて生きる希望を手にすることができるのです。


3つの柱は倒されることがありません。三本の矢は簡単に折られることはありません。
今日の日が祝福であふれていますように。
 

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9月6日 幸福度を上げる

おはようございます。
心と体に優しいペースで歩みましょう。
台風が通過する地域の方々が守られますように。


☆今日の御言葉 マタイによる福音書6章9ー13節
『天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに日ごとの糧を今日お与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちの負い目のある人を赦しましたように。私たちを試みに遭わせず悪からお救いください。』


先日、ユニセフ・イノチィンティ研究所が世界38カ国を対象に「子どもの幸福度ランキング」というレポートを発表しました。日本の子どもの幸福度ランキングは、総合で20位(38カ国中)でした。とくに、生活の満足度や自殺率を示す「精神的幸福度」は、日本の子どもたちはなんと37位だったのです。ある調査によると、日本では、15歳から34歳までの死因の一番の原因が自殺であるようです。これは先進国と呼ばれる国々の中では他に例がないとのことです。


経済的なことや、身体的な満足、食べるものや着るものがあっても、決してすべてが幸せであるということではありません。経済的な発展もどんなに必要であっても、価値ある時間を犠牲にしてしまっているのかもしれません。食べ物はすぐに買うことができても、一人一人と大切な時間をゆっくり共有することは少なくなっているのかもしれません。大人のペースで子どもたちの心が置き去りになり、非常に狭い価値観の枠組みに押し込んでしまっているのでしょうか。


ゆっくりと確実に、一人ひとりの個性が輝き、生きていることの意味、自分存在の価値を見出すことができる、お祈りがあります。
それが主の祈りです。


個性が輝く・・天の父よ
誰一人として、同じ人はいません。神さまは、人間を創造の冠、一人ひとりを素晴らしい喜びの存在としました。誰とも比べなくていいのです。何かができないことがあっても、人違うことがあっても、神さまは一人ひとりにしかできない役割を与えてくださっています。誰かを幸せにすることができます。だれかに愛を届けることができます。そっと祈って支えることができます。「天におられる私たちの父よ・・」その祈りは、神さまと私を強く結ぶ絆となり、私に与えられているもっと良い部分を深く見つめることができるのです。


生きる意味・・御心が行われますように
生きる意味はどのように知ることができるでしょうか。自分自身だけを見つめてもその意味を見出せないことがあります。社会のシステムや枠組みの中で自分はどう生きることができるだろうと思っても、自分の個性が発揮できない時もあります。主の祈りの中では御心を求める祈りがあります。「御心が行われますように・・」御心とは、神さまの思いを豊かに知ることです。みことばの中から神さまの思いが自然と心に伝わってきます。そして、みことばから聞こえる神さまの思いとと私の情熱(関心や喜び)が一つになる時、生きる意味を見出すことができるのです。


存在の価値・・日ごとの糧、赦し、試みから守られる
神さまは、私の必要をよく知っていてくださっています。豊かな眼差しをもって見つめ守ってくださるのです。私たちはどれほど価値ある人生を今日生きているでしょうか。主の祈りの中にある、日ごとの糧を求める祈りは、神さまの優しさです。私たちが重荷を負って悩み苦しむことがないように、赦しの道に歩ませてくださっています。そして、試みの中にあっても、神さまは私たちの手は離さないでいてくださるのです。生活の中に、たくさんの恵みが満ちています。感謝と喜びが心に生まれる時に、その人は最も幸せな人生を歩くことができるのです。


幸せは、神さにあって私たちの内側から生み出すことができるのです。


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9月5日 人生の道、コースガイド

おはようございます。
神さまの目に高価で尊い存在のあなたへ。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙12章2節
『信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。』


東京オリンピックが2021年に延期になりました。今年は数枚のチケットを申し込みましたが、すべて落選しました。来年はどうなるでしょうか。聖書が書かれた時代も、すでにオリンピック競技のようなスポーツ大会が行われていました。神さまを信じて生きる道をスポーツ競技に例えて語っているような箇所がいくつもあります。今日のみことば、ヘブライ人への手紙12章はその一つです。


私たちの人生はマラソンレースのようなものです。思いがけないアクシデントもあれば、疲れ果てて、気力を失ってしまう時もあります。だれもがスタートの号令によって走り出し、今日まで生きています。それそれの走る行程があります。短くても、長くても、それぞれの人生の生きる意味と証しが残されるのです。


もし、私たちが、人生のマラソンコースの全行程を知ることができたらどうでしょうか。地図を広げるように、一緒に見ていましょう。きっと、今日生きることの意味を実感することができます。


スタート・・救いの道を歩む
人生の道は、決して絶望に満ちているのではありません。イエスさまは、救いの道の創始者であり、完成者です。昔から約束されていました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた。」(イザヤ9:1)イエスさまがこの地に来てくださった意味は、救いの道に私たち一人ひとりが歩むことができるように整え、その道をつくってくださったのです。恐れは過ぎ去りました。悩みは終わりました。私たちは与えられている一日一日をそれぞれのペースで走ります。イエスさまから目を離さずに進みます。競争する必要はありません。自分の弱さだけを見なくていいのです。イエスさまだけを今日見つめます。


霊的な同伴者・・わたしはあなたと共にいる
このレースは、様々な時を通ります。疲れ果ててしまう時には給水所があります。少し足を止めて休んでいいのです。怪我や病気の時には、救護者もいます。イエスさまは、わたしと同じペースで走ってくださるのです。励まされ、愛されていることをいつでも思い起こし、決して一人でこの道を歩いているのではないことを知ります。イエスさまのペースが少し早くなりました。難関な場所に来たのです。十字架のような道を通ります。嘲り、裏切り、無理解、辛く消耗してしまう時です。イエスさまは、わたしたちの先に歩まれます。私たちが重荷で苦しまないようにしてくださっているのです。足元には恐れがあっても、イエスさまをただ見つめる時に、その道が希望の道へと続いていることを知るのです。


ゴール・・祝宴が催されます。
必ずゴールがあります。暗闇のトンネルの先には光があります。十字架の悩みが私たちの最終地点ではありません。イエスさまは、先にゴールで待っていてくださっています。喜びがまっています。祝宴がまっています。最終コーナーは辛い時もあるでしょう。よく走ってきました。労苦は報われて、目の涙は拭われるのです。最初から最後まで、イエスさまは、わたしたちと一緒でした。そして、この地上での苦しみを忘れてしまうほどの、痛みが小さいものだっと思えるほどの栄光に包んでいていてくださるのです。この祝宴は今まで経験したことのないような喜びの時となります。


エスさまから目を離さず、今日もご一緒に。
 

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9月4日 今日が救いの日

おはようございます。
自分の良いところが生かされ誰かが喜ぶ日でありますように。


☆今日の御言葉 ヨハネ黙示録1章17−18節
『この方を見たとき、私は死人にようにその足元に倒れた。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている。』


以前、アメリカのキリスト教の歴史を勉強しているときに、ジョナサン・エドワーズという人の生涯を調べたことがあります。18世紀のアメリカで信仰復興運動(リバイバル)が起こり、その運動を導いた指導者と言われています。当時のアメリカの社会には、差別、格差、腐敗してしまうような人々の生活がありました。あるとき、ジョナサン・エドワーズが聖書からメッセージを語ったときに、多くの人々の心に神さまを求める思いが宿り、今まで教会に行ったことがなかった人たち、聖書を読んだことがなかった人たちが、神さまの救いを求めるようになったのです。人々が教会に押し寄せました。そして、人々の生活は変えられ、そのことが社会全体に大きな影響を与えるまでになりました。


書物の中で、ジョナサン・エドワーズは、ある日体験した、神さまとの出会いを記しています。「私は涙にあふれ、声をあげて泣いていた。たましいが燃え上がり、空っぽで消滅したとしか表現しようのないものになるのを感じ、塵の中に横たわってキリストだけに満たされ、聖い純粋な愛でキリストを愛し信頼し、キリストによって生き、キリストに仕え、聖なる天上の純粋さによって完全に聖められて、純粋になるのを感じたのである。」


神さまは、あるときに、私たちに深い悲しみを見せるときがあります。大きな重荷が自分の人生を苦しめていることを気づかせてくれることがあります。喜びではなくて、私の心の深いところにある闇と思えるような罪が見えるのです。その罪は、犯罪者ということではなく、自分の中にある不信、冷えた愛、欲望の虜、恐れ囲まれた深い闇を抱えているものであることに圧倒されるのです。


黙示録の著者は、「私は死人のようにその足元に倒れた」と表現しました。涙があふれ、本当の自分の深い内面に自分を奮い立たせる力がないことを思うのです。どうにか、背伸びをして自分の力で立とうとがんばるかもしれません。それでも、自分の力では完全に力強く立てない存在なのです。神さまを必要としている私たちです。自分の意識や感覚では、神さまを信じることの抵抗感を強くもちます。しかし、純粋に本質的に、本当の私の存在は、神さまの救いを求めているのです。


右の手を私の上に置いてくださる方がいます。右の手というのは、神さまの力強さの象徴です。「恐れてはならない」と呼びかけてくださる神さまがいます。自分で立ち上がることができないときこそ、恵み深い神さまの愛を知るようになります。罪は私たちを支配しません。暗闇はもう私たちを悩ますことはありません。死と滅びは私たちの人生の終着点ではありません。


今日の御言葉に「死と陰府の鍵を持っている」とあります。死と陰府に向かう門の扉に鍵をかけて、閉じるように、イエスさまの十字架は、私たちを救う力となりました。だれでも、神さまをよび求める人は、救われるのです。新しい人生がはじまるのです。心には喜びが与えられ、いつでも神さまに愛されている者としての祝福の日々が待っています。


エスさまを信じるお祈り
「神さま、そのままで私たちを愛していてくださることをありがとうございます。愛を信じ、救いを信じます。私の暗闇に光をてらしてください。自分を信じ、神さまを必要としていないかのように振舞っていました。おゆるしください。私が求める時、祈りを聞いてください。私の生涯に神さまの祝福と愛を豊かに満たしてくださり、祝福を伝え、愛を分かち合い、赦されたものとして赦し、愛されたものとして愛し、祈りの道に歩いていくことができるように守ってください。心にイエスさまを迎えます。アーメン」


神さまを信じる道に喜びがあります。
 

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9月3日 夢を抱く人

おはようございます。
大丈夫です。今日も神さまの守りの中です。


☆今日の御言葉 コロサイ3章2節
『上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたは死んで、あなたがの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。』


まだ、子どもが小さい頃、教会の近くの大島記念公園というところでよく遊ばせていました。その場所は、大島正健さんという方の生家の跡地でした。大島正健さんは、札幌農学校(現在の北海道大学)の第一期生となり、クラーク博士から教育の指導を受け、後にクリスチャンとなりました。クラーク博士は、わずか数ヶ月の日本の滞在でありましたが、聖書を用いて生徒たちに神さまの福音を伝えました。その一期生の全員が洗礼を受けるようになります。その後、大島正健さんは、日本の教育、文化に大きな影響を与えました。


クラーク博士は、キリスト教信仰を有名な言葉でまとめました。“Boys,be ambitious in Christ”(青年よ、キリストにあって大志を抱け)という言葉です。


キリスト教信仰は、決して観念的なものではありませんでした。一つの宗教の枠組みの中でだけの概念ではありません。イエスさまが共にいてくださると思える時に、私たちは夢を抱く人になります。希望を信じる人になります。どのような困難の中にあっても神さまの愛を分かち合い、生きる人になります。その道は、人間の本当の幸せにつながっているのです。


神さまにあって夢を抱く人はどのような人でしょうか。


心の中心の変革
私たちの心の中心にあることが、私たちの人生にあらわされます。恐れ、不安が中心にある時に、周りにあるすべてのことが恐れる対象となってしまいます。自分の力だけが中心にあると、だれかを見下したり、劣等感で生きるようになります。自分自身が中心になるときに、様々な生きにくい問題を引き起こります。中心をイエスさまにします。少しずつでもみことばが心の喜びとなり、祈りが自然に心から生まれてくる生き方は、本当の幸せにつながっているのです。


キリストの世界観
私たちの人生の歩む姿勢は、地面を見るように、今起きている現実だけに目を留めてしまいます。良いこと、悪いこと、難しい現実には悩みが強くなります。今日のみことばの「上にあるものを思いなさい」ということと、「キリストにあって大志を抱く」という言葉がつながっているように思いました。私たちの人生は、これからも続いていきます。そして、私の思いが神さまの思いと一つになる時に、私という小さな人生観の中にも、大きな神さまの御心があらわされるようになります。下(現実)だけがすべてではありません。横(人間関係)だけにすべての希望を見出そうとしません。上(信仰)によって、私が私らしく輝き生きる人生を見い出すのです。


いつまでも残る愛
この世にある夢は、いつかははかなく消えてしまうものかもしれません。一生懸命、夢の実現のために生きても、その夢が小さく、やがて無くなってしまうものであれば、空しさがやってきます。決してなくならないもの、私たちが最後まで抱き続けるもの、それが神さまの愛です。愛は、私たちの心を喜ばせ、愛を分かち合うときに、神さまの祝福は、どのような場所にも広げられていくのです。神さまに豊かに愛され、そして愛をもって生きる人の人生は、美しいのです。


神さまは、まだ、見たことがないような大きな恵みの業をこれから見せてくださるでしょう。
私たちを通して神さまの愛を知る人たちが起こされるでしょう。私たちを通して、絶望を感じていた人が、神さまにある希望を見い出すようになるでしょう。


そんなことを考えながら、今朝、大島記念公園でお祈りしました。
 

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