海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

9月2日 人生を変える出会い

おはようございます。
みことばのパンが焼けました。少しでも力になりますように。


☆今日の御言葉 ローマの信徒への手紙1章20節
『神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。』


先日、NHK大河ドラマ麒麟がくる」の放映が再開されました。明智光秀が主人公のドラマですが、その中で戦国時代にクリスチャンとなった細川ガラシャが登場します。光秀の娘で、後にクリスチャンとなり、カトリックの洗礼名であるガラシャという名前で呼ばれました。


17世紀のヨーロッパで、日本という異教の地で信仰を貫いたガラシャの生きざまはオペラにまでなって人々に感動を与えました。激しい時代を生き抜く中で、キリシタン大名の片山右近から神さまの福音について聞き、それをもっと知りたいという魂の飢え渇きがあって、洗礼に導かれました。


人の心に強く働く神さまの見えない性質がありました。神さまの存在は、目に見える形で私たちの前に現れるということではないかもしれません。それでも、神さまは、今日、私たちのそば近くにいて、わたしたちが神さまの恵みに出会うことができるようにと守ってくれています。


朝には、日が昇り、夕になると沈みます。風が吹き、鳥はさえずり、木々は揺らぎます。私たちが見る自然は、神さまが造られました。そこに神さまの性質があります。そして、この神さまの性質が人間に宿るように、心の中に神さまの愛と救いを実感することができるのです。心は満たされ、安らぎと力が内から湧き上がるのです。


どのようにして神さまの性質が人の内に宿るのでしょうか。


飢え渇いた魂
神さまは、救いを与えようとするときに、多くの場合、その人はある出来事や状況の中で飢え渇いた思いになります。この飢え渇きというのは、この世にある何をもっても満たされないと思うむなしさでもあります。むなしさを感じることは辛いことです。心の飢え渇きは、新しい恵みが注がれるために必要な大切な準備の時なのです。


出会い
神さまは、人生を変えるような出会いを与えてくださるのです。真実に出会わせてくださるのです。悲しみのままで放っておかれることはありません。誰かが問題の解決となる言葉をかけてくれたり、新しい出会いによって不思議に道が開かれるような時もあります。とても辛い出来事があっても魂が磨かれて、神さまを信じたいという思いが強くなるのです。


本当の強さ
人間の本当の強さは、神さまの力に支えられることです。どんなに強い人でも、荒波を乗り越えた精神力があっても、人はいつでも弱さを抱え続けます。弱さがあって、優しさ、愛、強さがその人の内から出てくるのです。そして、そこに信仰という確かな土台が築かれる時に、その人は、どんな中にあっても、自分らしさを失わず、神さまを見上げて、生きていく自由と喜びが人生に満ち溢れるのです。


エスさまの愛に出会う喜びの日でありますように。

 

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9月1日 幸せになる片付けの法則

おはようございます。
九月、祈りの答えが与えられる時でありますように。


☆今日の御言葉 イザヤ書55章8節
『私の思いは、あなたがの思いと異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるー主の仰せ。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。』


片付けが苦手な私は、ある本を手にしました。その本によると、片付けに悩む人というのは、「なかなかモノが捨てられない」という問題を抱えているようです。そして、なぜ、モノが捨てられないかというと、3つの心理効果が働いているからだと説明するのです。
1、選択回避の法則・・選択肢が多くなりすぎると人間はモノを選べなくなる。
2、損失回避の法則・・人間は自分が損をすることを非常に恐れる存在だ、ということです。
3、保有効果・・自分が一度所有したモノに、より高い価値を感じてしまうということです。


「モノが捨てられない人」のように、たくさんのことを抱え込んでしまうことがあります。私の心が、整理ができていない部屋のようにあらゆる心配や重荷でいっぱいになっているのです。もし、その心の部屋を整理することができたら、今日の日はきっとスッキリとした気持ちで歩いていくことができます。


神さまは、「私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いより高い」と言われました。


私の道は、ある時混沌として、片付けが必要な状態になっています。神さまの道は、より自由で愛に満ちて、私たちを祝福へと導いてくださるのです。


神さまの思いを知るために、3つのことを考えてみます。


・人生は、シンプルでいい
複雑に生きる必要はありません。これも、あれも、心配し、自分の手に抱え込み、それら一つ一つの結果がどうなるかと考えすぎなくてもいいのです。イエスさまはある時「あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。」(ルカ10:41)みことばを握ります。みことばは恵みと将来を開く扉の鍵です。イエスさまの思いは、私の考えを超えて、いつでも最善のことを与え、守ってくれるのです。


・愛されていることをただ信じる
フランスの物理学者でクリスチャンであるブレーズ・パスカルという人は、「人間は神のかたちに造られた、と聖書は語っていますが、それは神を求める存在という意味もあり、人は神によってでしか満たされない心の空洞が心にある」と語りました。それは、神さまの愛です。私たちは、神さまの愛を拠り所として生きる時に、必要なこと、大切なことを選ぶ本当の自由が与えられます。愛で満たされた生きることが、すべての悩みを克服していきます。


・神さまの視点で見てみる
自分自身に固執する歩みは、生きづらく不自由な面があるのです。自分で自分を見ると小さい存在だと見てしまいます。この問題は絶望だと自分の人生を決めつけます。あの課題は、最悪になってしまうのではないかと心配します。それは、ある時は正しいかもしれませんが、多くの場合は、間違ったことを信じ、不必要なことまで抱え込み、生きにくくさせてしまうのです。様々なものを見る視点を変えてみます。「イエスさまならどう見るだろうか」と思い巡らしてみます。「イエスさまならどう考えるだろうか」とその時々に立ち止まって祈ります。その時、新しいものの見方で歩む知恵が心を満たすのです。


私の考えよりもはるかに良いことを、私の思いよりもはるかに最善となることをしてくださる神さまが今日も一緒です。


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8月31日 試練の中にある人へ

おはようございます。
愛し、愛されための今日の日です。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第一 10章13節
『あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神さまは真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。』


「神さまは、耐えられないような試練に遭わせることはない」というのは聖書の有名な言葉です。歌手のYoshikiさんや、競泳女子日本代表で白血病を患った池江璃花子選手、フィギアスケートの羽生結弦選手がテレビやインタビュー等で語っていることが話題になりました。


試練という言葉は、聖書が書かれたギリシャ語でみると「誘惑、試み」という意味があります。苦しいことや、絶望的な状況だけを試練と呼ぶのではなく、試練と思える出来事によって神さまの恵みが見えなくなる事が私たちにとっての大きな悩みとなってしまうのです。愛が冷め、希望を諦め、神さまがどのような中にあっても、共にいてくださることを見ないようにされる誘惑、試みがあるのです。


試練の意味
試練は、決して私たちを悩ますために起きるのではありません。もちろん、痛み、葛藤、深い悲しみ・・かつて経験したことのないような出来事に打ちのめされるような気持ちになります。試練は、私たちをイエスさまの十字架に近づけさせるのです。傷ついたイエスさまは、私たちの痛みも悲しみも理解できないお方ではありません。深く、豊かに私たちを慰めてくださるのです。その時、試練を通して、十字架のイエスさまと一つになります。十字架のイエスさまと一つになる時に、復活のイエスさまとも一つとなり、試練の先にあるとても大きな神さまの奇跡と力の業を見るようになります。
「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(ヤコブ1:12)


試練と共に逃れる道

試練の時の逃れる道は、現実逃避する場所ではありません。逃れる道という言葉は、別の道、新しい歩み、行き止まりはなく、神さまの希望の道は開かれていることを意味してます。私たちは、今日まで守られ、人生の道を歩いてきました。うまく事柄が進んだことも、また計画を変更しなければならないこともありました。時に、試練という行き詰まり、行き止まりの道のように感じてしまうことがあります。イエスさまは、死の先にも命の道を開いてくださった方です。悲しみの先にも深い喜びの道を開いてくださいました。行き詰まりは、曲がり角であって、また新しい道は、開かれ続けるのです。


恵みの座への招き
試練は、人生を見つめ直す時にもなります。がんばって、誠実に、一生懸命歩いてきました。それでも、もう自分の力では、知恵ではどうすることもできない場所に立たされるのです。でも、失望しないでください。心配で心を覆い尽くすことをしないでください。試練は、わたしたちをイエスさまの恵みの座へと招くのです。
「大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯さなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。それゆえ、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを受けるために、堂々と恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:15−16)


試練を通りすぎた人にだけ分かる、神さまと私の秘められた宝が与えられるのです。
 

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8月30日 神さまに近づくハシゴ

おはようございます。
大切な方へ。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書8章29節
『私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を独りにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』


以前、教会の聖書の学びで「レクティオ・ディビナ」という聖書の読み方を紹介しました。「聖なる読書」と言う意味があり、ゆっくりと聖書のみことばを祈るようにして読みます。みことばを通して、神さまに出会うことを意識します。


4つの段階があります。Lectio(読む)、Meditatio(黙想する)、Oratio(祈る)、Contemplatio(観想する)一つ一つを意識することによって、神さまに近くハシゴを一段ずつのぼるようにイメージすることができ、みことばをとおして、神さまに出会う恵みを体験します。


Lectio(読む)
読むことは、解釈をしたり、理解しようとして一生懸命意識を働かせることではありません。「みことばに触れる」ようにして読みます。違和感もあるでしょう。難しい表現もあります。そのまま触れ続けます。「私をお遣わしなった方・・」(ヨハネ8:29)神さまの方から恵みがやってきます。みことばの豊かさは、触れている時、私たちの理解を超えて、神さまの方から喜びの種をそっと心に植えてくださるのです。やがて喜びの実が結ばれます。


Meditatio(黙想する)
私たちの社会はスピードが求められています。より良く効率的に前へ進むような仕組みができています。しかし、立ち止まることで、今ある恵みを感謝することができます。静まることで心配は小さくなります。留まることで、共にいてくださるイエスさまの温もりを感じるようになります。より深く人生を見つめ、「私と共に」いてくださる方を豊かに知るのです。


Oratio(祈る)
祈りの言葉は、私たちの中から出てくるものではなくて、神さまから与えられるものです。「私が祈る」のではなく「祈らされる」ことがあるのです。神さまが私たちに祈りを与えようとする目的があります。人間の業、この世の力を超えたところにある神さまの御業を見るためです。「私は独り・・」ではなく、神さまとの共同の人生を歩いていて、一つひとつの祈りを聞き、良き願いを実現させてくださるのです。


Contemplation(観想)
祈りは、生き方を変えます。みことばに触れる時に、私たちの内側に神さまの愛、力が宿り、何が大切で、私は今日何をするべきかを知るようになります。「御心を行う・・」ように、自然と導かれていくのです。愛を分かち合うことで心が満たされるようになります。みことばに触れることが最も大きな安らぎとなります。礼拝が生きる力となります。そのように導かれる人生は、人間の幸いな道につながっているのです。


今日、静まり、みことに触れ、心も体も魂も恵まれていますようにお祈りします。


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8月29日 期待値のコントロール

おはようございます。
すべての面で幸せで健康でありますようにと祈ります。


☆今日の御言葉 ルカによる福音書17章20節
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』


ある書物にこのような言葉がありました。「心の痛みは、理想と現実のギャップから起こります。そしてそのギャップが大きければ大きいほど、痛みも激しくなります。現状をコントロールすることは出来ませんが、自分の期待値はコントロールすることが可能です。」


エスさまの周りにいる人たちは、「神の国」を待ち望んでいました。抑圧された状況からいつ解放されるだろうかと求めていました。神の国は、人々の夢であり、期待であり、待ち望む希望でした。人々は、大きな理想を持っていたのです。しかし、現実は、思うように、期待する通りにはなりません。イエスさまは、その人々に、「ここに」「あそこ」にと理想の中で神の国が実現するのではないと言われました。

 

「あなたがたの中に」もうすでに手の届くところに、希望があるのです。このイエスさまのことばによって、期待値をコントロールしてみます。私たちを悩ますものを一つ一つ人生から取り除いてみます。もちろん必要のこともたくさんありますが、もしかすると不必要なことに悩まされていることもたくさんあるのです。


満足、期待値のコントロール
すべてのことにおいて、満たされ、満足したいと思うことがあります。自分の思い通りのことが実現し、思い通りの関わりをしてくれる誰かによって満足の期待値は高まります。しかし、この満足の期待値が完全に満たされること非常に難しいのです。祈りつつ、神さまとの関係の中に自分の全てをおきます。今まで神さまはどのように私を守ってくれたでしょうか。今まで、どのように支えられたでしょうか。そして、これからも神さまは、私たちに希望の計画をもっています。みことばの約束は、今日私たちの手の届くところにあり、いつでも慰め、平安、愛、希望を持って歩むことができるのです。


幸せ、期待値のコントロール
後悔してしまう出来事に悩まされていたり、誰かの人生の良い部分だけを見つめたりしていると、自分の幸せを感じることができないことがあります。幸せや心の満たしは、外側の状況によって与えられるものではありません。私の中からいつでも、いくらでも生み出すことができるのです。神さまのそば近くには、この幸いが満ちています。心の憂も、悲しみも、イエスさまの愛と慰めを感じる時に、私たちのそのままは尊く、素晴らしく思えるのです。


理想、期待値のコントロール
もっと自分は変わらなければいけない部分があります。「こうならなければ」「ああなければ」と自分自身にプレッシャーをかけるようにして歩いてしまうことがあります。弱さや思い通りにならない現実を自分や誰かのせいにしてしまうことがあります。神さまは、最善のことをいつでもしてくださるお方です。暗闇には光を、弱さには力を、自分は小さくても、大きな神さまの愛が私たちの人生を前へ前へと進ませてくださるのです。


もうすでに私たちは、多くの面で神さまの恵みによって満たされているのです。
今日の日が平安の中で守られますように。
 

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8月28日 信じ行く

おはようございます。
試練+祈り=恵みになります。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙11章8、10節
『信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召された時、これに従い、行き先を知らずに出て行きました。・・アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計されたのは神です。』


ちょっとした小話を・・。以前、海老名シオンの丘教会でお招きした先生が子ども礼拝のメッセージの中でこのようなエピソードを話されました。先生がある時、小田急線に乗っていました。車内アナウンスにハッとされられて、とても神さまから励まされ勇気づけられたそうです。その車内アナウンスは、「次はしんじゅく(新宿)・・次はしんじゅく(新宿)に到着します」というものです。このアナウンスのどこに信仰の励ましがあるのでしょうか。よく聞いてみると「しんじゆく(信じ行く)、しんじゆく(信じ行く)」と聞こえたからです。


私たちも「信じ行く」今日の日です。大変な問題もあるかもしれません。生きにくさを抱えることもあるかもしれません。それでも、今日の日も神さまが造られました。今日は恵みの日、救いの日です。


信じ行く歩みを実践した人がいます。旧約聖書に登場するアブラハムです。ある時、神さまから語られました。「あなたは生また地と親族、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。・・あなたは祝福の基となる」(創世記12章1−2節)アブラハムは旅立ちました。行き先も知らずに、一つの約束だけは握っていました。「神さまが限りなく祝福してくださる」という力強い確信です。


旅をすることは大変でした。住み慣れた地を離れ、どうなるか分からない現実があり、全てのことが守られるという目に見える確証はありません。人間的な思いでの確証はなくても、神さまにあって信仰の確信はありました。


私たちは、人生の旅路の中で、石橋を叩いて渡るように確証を必要としているかもしれません。幸せになるという確実な保証、目に見える安心、それがあって初めて前へ進んでいくことがあるのでしょう。しかし、私たちの人生には、明日の確証すらありません。何が起きるかは分かりません。どんな幸せを保証してくれるのかと尋ね求めても、自分の思うような答えがありません。


しかし、神さまにあって生きる道には、みことばの約束はあるのです。「あなたは祝福されます!」という確信です。どんな道にあっても、今はその祝福のひとかけらも感じられないことがあっても、神さまは決して私たちに最悪のことを与えて悩ませ続けることはありません。


私の好きな賛美歌の一つを紹介します。
「明日はどんな日か、わたしはしらない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日はわたしには分からないないけど、明日を守られるイエスがおられる。」https://youtu.be/xODSzkBIpcM


今日の日が神さまの愛と恵みで包まれていますようにお祈りしています。
 

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8月27日 諦めない心のつくり方

おはようございます。
すべては神さまの手の中で守られます。


☆今日の御言葉 使徒言行録4章31節
『祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。』


私は1999年に神学校を卒業しました。その年は、〇〇の大予言というものが世間では話題となっていて、地球滅亡の時と言われていました。全く信じていませんでしたが、8年間も神学の学びをして、やっと卒業という時に、世界が終わったら・・と冗談のようにして友人と語り合った時を思い起こします。


この世界は、確かに終わりの時がありますが、聖書は「慌てないように、惑わされたりしないように」と私たちに語りかけます。16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「たとえ明日、世界が終わることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」と言われました。いつまでも希望を持ち続ける思い、悲観的にならずに、神さまのしてくださることに期待する祈りがそこにはあります。


神学校を卒業して以来、いつも3つのことを祈らされています。それは、自分自身の課題でもあり、まだ十分にできない事でもありまが、困難の時代の中にあっても、たとえ終わりの時に向かう時があっても、力強い神さまの愛に満たされる秘訣でもあると思っています。


1、謙遜でありたいー祈る人

エスさまのお弟子さんたちは、祈りの人になりました。ローマが支配する世界にあって、たくさんの不満があったでしょう。自分の人生のこだわりもあったでしょう。自分の思い描く理想はなかなか実現しないこともあったと思います。すべての苦しみ、困難は、その人のうちに祈りの領域を生み出します。それは、深く、豊かな、神さまの愛が注がれるためです。祈りの心は、神さまの豊かな働きを見る目となるのです。


2、忠実でありたいー聖霊に満たされる人
エスさまは、お弟子さんたちに「高い所からの力に覆われるまでは都にとどまっていなさい」(ルカ24章)と言われました。高い所からの力をすぐに経験したわけではありません。ずっと待ち望み、みことばの約束を握りしめる歩みがありました。諦めたくなること、もう嫌だと思ってしまうことがあっても、明日のことは心配せずに、今日一つのみことばに支えられて生きて行く歩みを続けます。待ち望む道の先に、思いがけないような神さまの助けが与えられます。たとえ、すべての状況が良いものでなくても、解決には程遠い山道を一歩、一歩と登るように、今日の日、支えらえて、次の日、守られて、神さまと共に歩む先に、見たことのない風景、神さまの恵みの高嶺で喜ぶ時が待っているのです。


3、大胆でありたいー福音を伝える人
人が変わることは難しいでしょうか。弱さと恐れの中にいたイエスさまのお弟子さんたちは、「堂々と神の言葉を語り出しました」言葉は、心の深いところから生み出され、語る言葉が、私たちの人生の道を開くものになります。神さまは、どのような状況の中にあっても、喜びの知らせを心に響かせてくださっています。「恐るな、わたしがあなたを救う」と呼びかけてくださっています。すぐに実感できなくても大丈夫です。神さまはみことばを語ることを諦めません。やがて、心にみことばが満ちる時に、わたしたちは語り出し、歩み出します。神さまをたたえながら歩くその道に、たくさんの神さまの業という花が咲くのです。


周りの雑音も、この世の恐れの嵐も吹いていますが、神さまの愛から決して離されることはありません。
 

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