海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

6月23日 お守りいたします

おはようございます。
必要が満たされる日でありますように。


☆今日の御言葉 フィリピの信徒への手紙4章7節
『あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。』


心と考えは、今日も様々なことに対処することがあります。充足する時もあれば、時には、冷たい風を受けるかもしれません。失望の嵐の中に巻き込まれてしまうかもしれません。心と考えが傷つき、自分自身の本当の姿を見失ってしまうようなこともあります。


神さまの平和が、今日、心と考えを守ってくれます。

試練の時に、悩みの時にも、大丈夫です。


今日のみことばには、「あらゆる人知を超えた神の平和」と記されています。
「あらゆる・・」というのは、多くのものを含んでいます。

たくさんの祝福です。数えられないような恵みです。


神さまの平和の光が今日、豊かにそして優しく注がれています。
その時、私たちの心と考えはどのように守られるのでしょうか。


・和解の祈り
憎しみ、怒り、不和、それらの思いは、自分の心を苦しめています。その痛みが強くなる時に、周りにも憎しみが広がっていきます。神さまは、人と人との間、事柄と事柄の間に立ち、とりなし私の手ともう一方の手を握り、真ん中に立って「平和があるように」と呼びかけてくださるのです。


・揺るがない安心
神さまとの絆が結ばれる時に私たちの心に安心が与えられます。目で見える状況が大変な時こそ、神さまとの絆が深められる時です。人生で経験するマイナスを悲観する必要はありません。苦しみは、神さまの呼びかける声です。「わたしに繋がりなさい、平和を与えよう」と。


・健全な心
健全な心になるのは、よりシンプルに生きることです。100個の重荷を背負って生きることは難しいです。そしてもっと難しいのは、重荷を手放し委ねることです。荷物を背負うことには一所懸命でも、その荷物を降ろしたり、委ねたりすることはなかなかできないのです。荷物を持っていない自分を不安に感じているからです。シンプルで大丈夫です。世にある安心を持てなくても、神さまはあらゆる平和を備えてくださっているのです。


・究極の満たし
今の現実の中ですべてを満足できない時があります。与えられているものよりも、与えられていないことの方に目を向けてしまうことがあるからです。わたしたちの心は、隙間、空間、満たされていない部分を必ず抱えています。それは空しさや不満足感を強くしてしまいます。心の空いているところに信じる思いを満たしていきます。信じる思いとは、まだ見ぬ希望、まだ与えらていない祝福を、すでに手にしているかのように神さまに感謝します。その時、良いものを与えてくださる神さまを経験するのです。


・信仰の助け
私たちの生活は、信仰を持っても、持っていないくても同じように日々歩いていきます。信仰はある時は杖として表現されます。同じ人間、変わらない人生、でもその手には杖があるのです。支えがいつでも備えれていて、祈りの杖を高く掲げる時に、海の中にも道が開かれます。私が弱くても神さまが力強く導いてくださっているのです。悲しみは慰めに変わり、嘆きは喜びへと変えられていくのです。それは神さまの平和が与えられているからです。


・みことばの光
明日のことを思い煩いません。将来のことを心配しません。過去のことを悔やんでいつまでも心を暗くしません。みことばの光が今日を照らし、どのような困難な道でも、みことばの光に導かれて、歩いていくことができます。周りの状況を憂いたり、恨んだりする必要はありません。暗闇という霧は自分ではどうにもならないことがたくさんあるからです。解決方法は、その手に光を持つことです。神の平和というみことばの光を手にしているのです。


・赦された罪
エスさまは、十字架につけられ、三日目に復活されました。平和を叫びつづけたイエスさまの声は、響いています。「罪は赦された、あなたは大切な神の子」と。十字架の重荷を負っていたお弟子さんたちに、「もう重荷を下ろしなさい。わたしはよみがえった。平和があるように」と語られました。自分を責めることをしないで、イエスさまを見つめます。何かを憂いたりしないで、イエスさまを信じます。自分のあり方に固執するのではなくて、ただ委ねます。平和と愛が今この時を満たしているからです。


あらゆる平和・・語りつくせないほどです。(長くなってごめんなさい・・)
たくさんの天の祝福をもって、今日の日を守っていてくださっています。
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6月22日 避難所のご案内

おはようございます。
恐れは私たちを支配することはありません。


☆今日の御言葉 詩篇91編3−4節
『まことに主はあなたを救い出してくださる。鳥を捕る者の網から、死に至る病から。主は羽であなたを覆う。あなたはその翼のもとに逃れる。主のまことは大盾、小盾。』


私たちの人生は、目で見るもの、耳で聞こえるもので感情が動かされます。川のせせらぎのような心地よい音が聞こえれば、心が平安になります。しかし、騒がしく心傷つける声を聞くと、ネガティブな気持ちになります。この心と思考のアップ、ダウンを日々繰り返して生きることは大変なことです。


私たちは、無意識のうちに、状況や人間関係によって幸せを求めています。相手や環境が自分の思い通りにならないと心は平安を失ってしまうのです。自分以外の何かに充実を求めると、真の平安を見出すことができなくなります。


いつでも、心豊かに、平安に生きる道があります。それは自分自身の存在の深いところに、みことばに示されている避難所(シェルター)をもつことです。感情の揺れ動き、恐れ、怒り、不安が心にきたら、すぐにシェルターに逃げ込むのです。静まって、祈りつつ、みことばを思い起こします。繰り返し、読むことも効果があります。


避難所はどこにあるのでしょうか。
どのような守りが約束されているのでしょうか。


・羽であなたを覆う
親鳥の翼のもとに逃れるひなのように、大きな翼の陰に隠れるのです。


「主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ記2:12)
「あなたの翼の陰を避けどころとします。」(詩篇57:2)
「あなたはわたしを必ず助けてくれだいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」(詩篇63:8)
「翼の広げた鳥のように・・これを守り、助け、かばって救われる。」(イザヤ31:5)
「その翼にはいやす力がある。」(マラキ3:20)


羽は大きく広げられています。自分が小さく見えることです。それでいいのです。
自分よりも大きな存在を認識する時に言葉では言い表せない平安に包まれます。
愛され、癒され、守られています。そして、豊かに祝福してくださるのです。


・主は大盾、小盾
盾は、力強い神さまの存在をあらわす言葉でした。


「恐れるな。アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)
「御もとに身を寄せる人に、主は盾となって守ってくださる。」(サムエル記下22:31)
「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾」(詩篇33:20)
「主は太陽、盾。神は恵み・・良いものを拒もうとはなさいません。」(84:12)


苦しみや悲しみは、すべて自分で直接受けなくていいのです。私にできることはわずかです。たくさんの重荷をすべて担わなくていいのです。心に深く受けとめて、自分を責めなくていいのです。委ね、祈り、自分の手で握る力を弱くし、神さまの力にすべてを預けます。


羽で覆われ、盾で守られる1日です。
みことばをゆっくりと思い巡らす日でありますようにお祈りしています。


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6月21日 父の子守唄

おはようございます。
心の重荷を降ろして安心して憩う日でありますように。


☆今日の御言葉 ローマの信徒への手紙8章14、15節
『神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッパ、父よ」と呼ぶのです。』


今日は父の日です。神さまを「アッパ、父よ」と呼ぶことができる幸せがあります。「アッパ」とは、小さなこどもがお父さんを呼ぶ声です。「パパ」「お父ちゃん」・・親しみ、信頼、愛、純粋さが伝わる言葉です。


「アッパへの呼びかけ」という詩を読んだことがあります。


「きれいにすんだ初冬のひろい ひろい青空にむけて 
 黄ばんだ葉を高くかかげているいちょうの木


 池の水にうつった百日紅さるすべり)のふるえるように美しい枝ぶり


 その水のうえを静かに 静かに流れていく一枚の紅葉の葉
 心がすいとられていくようなこの自然の美しさは
 アッパ、お父さま、
 お父さまの子守唄がこの見える自然の奥にひっそりと流れているからなのでしょうね」


父なる神さまの子守唄がこの世界には優しく響いています。


「主に求める人には良いもののかけることがない。」(詩篇34:11)

「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ」(箴言23:26)
「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」(エレミヤ31:16)
「あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがないない」(マタイ7:11)


その子守唄は、みことばです。
「恐れることはなにもない」「わたしがすべてを守る。」といつでも語られるのです。

 

水のうえを流れる葉のように、静かで豊かな時間が流れていきます。


それでも、また考えだすと、過去の傷、悲しみが押し寄せてきます。
子守唄は、いつでも聞こえてきます。
「あなたを脅かすものは何もない」「わたしはあなたを癒し、とこしえに守り導く」
「子よ、安心しなさい」と・・
風に揺れる木々のように、父なる神さまの優しい声が風のように吹いてきます。
みことばの優しい声に包まれるように自分自身のすべてを委ねます。


今日は、安息の日です。父の日です。
父なる神さまのふところで安らぐ日です。


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6月20日 神さまは直線を描かない

おはようございます。
みことばは、今日の歩みを照らすともしびです。


☆今日の御言葉 出エジプト記13章21、22節
『主は彼らの先を歩まれ、昼も夜も歩めるよう、昼は雲の柱によって彼らを導き、夜は火の柱によって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が民の前を離れることはなかった。』


人生が思い通りにいかないと思ったことはありますか。遠回りをさせられているような挫折や、苦労を経験したことがありますか。神さまは、私たちの人生の道をまっすぐに線を描くように導いてくれないことがあります。


モーセに率いられたイスラエルの民は、約束の地カナンを目指します。エジプトからカナンへの旅のルートは、幾つかありました。直線を描くような最短ルート、少しだけ曲がりくねった危険回避ルート・・。モーセイスラエルの民は、一番の遠回りと思える40年の最長ルートに導かれました。


私たちの人生は、効率を求めること、目的を早く達成することに価値が置かれています。直線を描くように、目的達成のための最短ルートをいつも考えています。思考をフル回転させて、慌ただしく歩いてしまうことがあります。

 

神さまは、実にゆっくりです。でもとても確実で、恵みが溢れいています。遠回りの道のように思えても、そこには実に深い神さまの恵みの出来事が現されるのです。悲しみ、うつむき、挫折するような道の中にあっても、神さまの慰めはより深く、神さまの支えはより強く、私たちの人生を守っています。


イスラエルの民は、急がず、慌てず、ただ雲の柱、火の柱の中を歩みました。


・雲の中の1日を体験しましょう。
雲ひとつない快晴の時もありますが、1日の中で空を見上げるならば、必ずどこかに雲が見えます。旧約聖書で雲は、神さまの大きな愛の中に包まれていることを現すものでした。雲がいつもともにあったように、いつでも神さまの愛とみことばは近くにあります。


小さなことでも、「今、何をしましょうか」誰かに対しても「何を語りましょうか」と祈りながら、聞きながら、神さまがすぐ側に立っているかのように、愛に包まれて歩くことができるのです。わたしは、雲の中の1日を実践することがあります。仕事でも、誰かと会っている時にも、買い物や休息の時間にも、神さまに耳を傾けていると、「これをしてみたら?」・・と神さまに優しく語られたり、1日の優先順位を考えている時にも「これは大切だよ」・・と教えてくれたり、誰かと会う時にも「この人にはこう話してみたら?」・・と知恵が与えられたり、お買い物の時にも、休息の時間にも、神さまがそばにいてくださることを感じるのです。
雲の中の1日は、本当に幸せで、結果的に一番良いことが起こるのです。


・火の柱の原材料
暗いと不平を言いたくなることあります。心には恐れや怒り、不満足や不平の闇に覆われてしまうことがあります。聖書の中で火は、聖霊の力をあらわすものです。この火は、よく燃えます。薪を集めるように、自分自身の恐れ、不安、痛みを神さまに委ねましょう。


乾いた枯れ木がよく燃えるように、わたしたちの内側にある否定的な思いは、私たちの心にずっと置いておくと、空しさに変わって心を荒れ果てた状態にしてしまいます。喜びは失われ、気力は低下してしまうのです。でも、その枯れ木は燃やせば、聖霊の炎に変わります。弱さが強さになり、悲しみは神さまを讃える賛美となり、不満足はより深い信仰の祈りとなっていくのです。


雲の柱がひとつひとつ助け導いてくださいます。
火の柱が神さまを信じる思いを熱くしてくださいます。
 

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6月19日 苦しみは通過点、喜びは到達点

おはようございます。
雨の日ですね。心には、神さまの恵みの雨が注がれますように。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書16章22節
『あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。』


苦しみの時、イエスさまは近くに寄り添ってくださっています。誰にも理解されない心の痛みにも慰めはそば近くにあります。イエスさまは、十字架につけられる前に、死に向かう中で、人々に最後のメッセージを語りました。


今は苦しみがある・・しかし、その苦しみを通った先に、喜びが待っています。今まで味わったことのない喜び、この世で経験したものではない喜び、誰にも奪われない喜びがあるのです。


苦しみや悲しみは、人生の終着点ではありません。私たちの人生の行き着く場所ではありません。通過点であり、その道を通り過ぎ、やがて優しいイエスさまに出会います。


十字架を経験されたイエスさまです。すべての悲しみを知っていてくださっています。どんな困難な道にも共にいてくださっています。慰めは天からやってきます。生きる希望はみことばからいつでも備えられます。


「喜び」と聞くと、幸福感や楽しい気分、溢れるほどの歓喜の気持ちなどをイメージすると思いますが、それ以上のものです。感情的、感覚的な何かよりも深淵なもの、言葉で表現することが難しいのですが、信仰に通じるもの、平安の中にある落ち着いた喜び、すべてを受けとめている平安、イエスさまの死と復活に現された力、信仰に深く根ざした自信に満ちた喜びです。


今日、この喜びを体験してみましょう。


・喜びの土台となるものは、救いの希望です
私たちの安心の拠り所は、自分自身の力や功績ではありません。それらも価値があり必要なものですが、喜びの土台とはなりません。救いは、イエスさまによって与えられたものです。そのままのわたしを十字架の愛でゆるし、どのような場所にいても「共にいてくださる」安心の拠り所です。たとえ、神さまの愛から離れることがあっても、救いの土台は揺らぐことがありません。


・喜びを建て上げるのは、祈りです。
私の心は祈りで守られます。たくさんの恐れの風が吹いてきます。傷つける言葉が飛んできます。失望をもたらす状況を目のあたりにします。いつでも、どんな時にでも「神さま・・」と呼びかける時に、私の心を聖なる神さまの愛が包み込むのです。もし、土台がしっかりしても、雨ざらし、恐れの風のふくままでは、安心できません。祈りで自分の心を守るときに、私たちの存在の深いところに喜びと平安が宿るのです。


・喜びの内側にあるものは、祝福と信仰です
土台も据えられ、外側もしっかりと建てられました。そして、重要ななのは、内部です。喜びが豊かに育てられるのは、祝福と信仰です。いつでも、祝福を求めます。もし、わたしたちがどのような環境や状況でも、神さまが守り祝福してくださると知るならば、喜びの中に今日を歩むことができるのです。


この喜びは、人生の最後の時にまで唯一残される、神さまが与えてくださる宝物です。

 

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6月18日 名付けの神さま

おはようございます。
心の慰めは、みことばの中にあります。


☆今日の御言葉 イザヤ書43章7節
『私の名で呼ばれるすべての者、私の栄光のために創造し、形づくり、私が造り上げた者。』


私の本当の姿は、とても美しく、安らかで、愛の豊かな満たしの中にあります。心の深いところに神さまの愛の種が宿り、豊かに人生を祝福で満たそうとしています。豊かな愛の安らぎ、充実、喜びが泉のように湧き出ています。ゆっくりと自分の内にある平安を見つめる時に、恐れの嵐は静かになります。


神さまは、今日の私をそのままで愛し、慈しみ、赦し、支えてくださっています。もし、恐れの中にあっても、過去の痛み、将来の不安を抱えることがあっても、私たちの存在の根底に神さまにある喜びの泉を見つめるならば、溢れるほどの感謝をもって今日を歩むことができます。


その喜びの泉を見つけてみましょう。神さまの愛がどのように語られているでしょうか。


・私の名で呼ばれる者
神さまは、ある時、人々に名前をつけました。それはもともとあった名前とは違うものです。神さまが名前をつけてくださる時に、その人生が変えられて、名前が意味するような日々を歩むようになりました。


旧約聖書に出てくるアブラハムは、もともと「アブラム」という名前でした。神さまは、ある時、「アブラハム」と名付けたのです。アブラムは、「父」という意味がありますが、アブラハムは「多くの国民の父」という名です。それは、たくさんの人に祝福を与える人という意味です。アブラハムは祝福の源となって、多くの人の人生に希望を与えたのです。


ヤコブという人は、「イスラエル」という名前になりました。それは、「神さまが勝利してくださる」という意味があります。自分で戦い格闘する人生から、もっと豊かな神さまの勝利の中に守られる人生を約束されたのです。


エスさまのお弟子さんの「シモン」はある時から「ケファ」と呼ばれました。ケファは、「岩」という意味です。もともとは弱く不安定さを抱えるシモンでしたが、しっかりとした「岩」となって、神さまの栄光の福音を語る人になりました。


新約聖書に登場する「オネシモ」という人は、逃亡奴隷でした。しかし、パウロのもとで福音にふれて変えられました。生きる勇気と希望を見出しました。「オネシモ」は「役立つ者」という本来の名前の意味を回復したのです。


私たちの人生は、それぞれ固有の名前をもって生きていました。人生の荒波を乗り越え、それぞれの人生を歩いてきました。私たちは、今までも今もそしてこれからも「自分」という名とつきあっていきますが、神さまが名付けてくださる、新しい名で日々を歩みます。


神さまは恵みによって、本当のわたしの姿を知っていてくださっています。


祝福の名で呼びかけてくださいます。あなたは祝福の人です。


神さまがすべてを守り勝利してくださる約束の名がつけられています。
あなたは勝利の人です。


神さまは、岩のような固い愛で守っってくれます。
あなたは揺るがない祈りの人です。


役立つ者として、神さまが与えてくださる喜びと愛がいつでも一緒です。


この名前のように人生は祝福されていきます。


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6月17日 涙の真実

おはようございます。
「光あれ!」と神さまの言葉が届いています。


☆今日の御言葉 詩篇126編5−6節
『涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も、種の束を背負い、喜びの歌と共に帰ってくる。』


神さまの真実に触れる時に、人は涙を流します。涙は、悲しみを洗い流し、新しい神さまの恵みを体験する機会ともなります。人生には、種の袋を背負う苦労があります。疲れや不安、むなしさや痛みを感じて涙を流します。その祈りの涙はやがて、収穫の種の束を背負う、喜びの歌声となるのです。祈りは聞かれ、労苦は報われるのです。


聖書に登場する多くの人たちも涙を流しました。
涙を通して、神さまの恵みを体験しました。


・ヒゼキヤの涙
「ヒゼキヤは涙を流し激しく泣いた。」(列王記下20:3)→「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、わたしはあなたを癒そう。」(列王記20:4)
ヒゼキヤは病の中で、涙の祈りをしました。祈りは天に届けられます。一番よい導きをしてくださる神さまを知りました。人が流す涙を通して、神さまの熱意のあるみことばを聞くことに導かれていきます。


エズラの涙
エズラが神殿の前で祈り、泣き伏して罪を告白したとき」(エズラ10:1)→「非常に大きな会衆となった。こうして民は激しく泣いた。」
エズラを心を痛め、涙を流しました。圧倒される罪が心を暗くしていました。その涙は、心に愛と赦しの光を照らすものに変えられました。神さまから引き離される痛みを通して、新しい神さまとの絆が結ばれました。


・ヨブの涙
「私の友は私を嘲るが、私の目は神に向かって涙を流す。」(ヨブ16:20)→「主はその後のヨブを以前に増して祝福した。」(ヨブ42:12)
ヨブは、不幸と思える現実と人間関係の傷によって涙を流しました。見えるものはすべて暗闇に閉じ込められるようなことを経験しましたが、目には見えないもっと豊かな希望を見つめる人生とさせられました。涙は大きな祝福の出来事に変えられたのです。


・詩人の涙
「私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください。」(詩篇56:9)→「神の前、命の光の中を進み行くために。」(詩篇56:14)
詩人は、祈りの中で涙を流しました。押しつぶされそうな痛みを経験する時、人の中に非常に純粋な信仰の祈りが生まれます。この地上で流す涙は、天の皮袋に蓄えられてやがて、恵みの雨となって、私たちの人生を潤す喜びを経験するものにされるのです。


・エレミヤの涙
「主はこう言われる。あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。」矢印「あなたの労苦には報いがあるからだ」(エレミヤ31:16)
エレミヤは、自分自身を見つめ涙を流しました。主の預言者として、りっぱに使命を果たしていましたが、現実は過酷で、人々は主のみことばに耳を傾けないばかりか、ひどい言葉によって中傷を受けていました。神さまに従う中で流す涙があるのです。神さまの手は力強く伸ばされて、「あなたの労苦を知っている。あなたの労苦には報いがある」と呼びかけてくださるのです。


・イエスさまの涙
「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)→「ラザロ、出てきなさい、と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」(ヨハネ11:43)
エスさまは、ラザロの死を悼み、悲しみました。ご自分の命を犠牲して、死では終わらない人生を与えようとされました。死という絶望に閉じ込められない命の道を開いてくださいました。十字架の涙は、わたしたちの救いの涙へと変えられたのです。空しく人生が終わることはもう決してありません。死は命に飲み込まれたのです。


涙は祈りです。
涙がある人生に真実なる神さまが近づいてくださるのです。
 

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