海老名シオンの丘教会牧師によるバイブルメッセージ

海老名シオンの丘教会の牧師による みことばメール

5月16日 神さまと共に歩む、1日のルーティン

おはようございます。
今日の幸せは自分で選ぶことができます。


☆今日の御言葉 マルコによる福音書4章5−6節
『ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。』


1943年に、フランス人作家のサン=テクジュペリにより書かれた「星の王子さま」という作品があります。その作品の中の言葉に「いちばんたいせつなことは、目に見えない」というフレーズがあります。


わたしたちは、あまりに目に見えることで忙しく、心配し、生きてしまうことがあるかもしれません。人の振る舞い、成功や見栄えの良さ、自分の課題や悩み、社会で起きている出来事、それらのことは本当に大切にすべきことがたくさんあります。だからこそ、毎日の生活では、その見えることへの対処、祈りが多くの部分を占めているのです。


私たちの悩みの原因は、多くの場合、この見える世界での出来事が影響しています。


でも、どうでしょうか。この私たちの生活に、目には見えない、もっと豊かな大切な世界があるとするなれば、今日はまた違う人生の風景を見ることです。


目に見えることが氷山の一角であるとするならば、見えないところにある部分を見つめるならば、わたしの人生の全体像が見えてくるのです。


エスさまは、ある時、4つの種のたとえ話を語られました。
農夫が豊かな実を期待して、4種類の土地に種を蒔きました。道端に蒔かれた種は鳥が食べてしまい、石だらけの土に蒔かれた種は芽を出しても、日照りで枯れてしまいました。茨(いばら)の中に撒かれた種も実を結びませんでした。そして、良い土地に蒔かれた種は、豊かに実を結びました。30倍、60倍、100倍の豊かさになりました。


注意深くこのみことばを読むと、とても大切なことを教えられるのです。
実を結ぶことができなかった原因がみな共通しているのです。
それは、目に見えるものにすべてその種の成長を妨げられてしまったということです。
同じ種です。とても可能性があって、芽生え育てば、何倍もの祝福の実をもたらすのです。


神さまに造られたひとりひとりは、本当に素晴らしい存在です。神さまの命が宿り、みことばは語られ、わたしたちが弱さを抱えてもなお、その人生に神さまのみことばが宿り、根を張り、生き生きとした喜びに溢れ、何十倍もの、何百倍もの実を結ぶ人生なのです。


四つの種が、目に見えることで翻弄されてしまった時間がありました。
そこで、目に見えないことに集中して実を結ぶ、このことを一日の割合で考えてみます。


1日24時間、すべての時間を、目に見えないことで生きることは難しいでしょう。
でも、目に見えることだけで一日終わったらもったいないのです。


1日の1/4(6時間)は、鳥が蒔かれた種を食べてしまいます。神さまがささやきいつでも語ってくださるみことばを見失ってしまう時間です。原因があります。「そんなみことばは価値がない」とどこからか聞こえてきます。「それは大切なものではないと」とこの世の情報に上書きされてしまいます。その時を見極めながら歩みます。


1日の1/4(6時間)は、みことばを通して、少しの喜び、一瞬心に宿り、何か気持ちが安らぎます。しかし、朝のみことばメールを読んでも、お昼ごろには、生活の目に見ること、試練や葛藤する出来事があると、もうこの朝の恵みは消えてしまいます(_ _).。o○みことばを送信するわたしが経験することです。このような時もあります。


1日の1/4(6時間)は、心配ごと、思い煩い、富の誘惑、欲が強くなり、みことばどころではありません。その豊かな神さまの愛よりも、目に見えることの中で生活は忙しくなってしまいます。ずっと平安ではいられませんね。このような時もあるのです。


わたしたちの生活の3/4(18時間)は、このような目に見える出来事に生きていて、みことばの本当のよろこびが失われているのです。


でもその一つひとつに、落ち込まないでください。自分を責めたり、誰かのせいにしないでください。それがわたしの人生の正直な部分なのです。


わたしたちは、目に見える3/4があったとしても、これが人生のすべてではありません。この3/4で生活を埋め尽くさないでください。朝から夜で終わらないでください。


もし、大切な1/4(6時間)を見るならば、すべてを超えて、人生を何倍もの祝福で満ち溢れるのです。意識すればこの時間区分を変えて、大切な1/4の時間をすべて(24時間)にもできます。


それは、神さまの恵みに満ちた1/4の世界です。1日で一番大切にします。いつでも意識します。
ゆっくりとみことば語られます。何も心配しないでください。そのまま、理解できてもそうでなくても、結果がどうとか、意味は何かとか、自分の中から考えがでてくることもあるかもしれませんが、神さまの知恵は、わたしたちよりも大きく、深く、完璧なのです。


すべてを委ね、祈り、何ごとも自分で動かそうとせず、賛美していましょう。
聖書のメッセージを聞き流したり、本も読みます。
神さまを意識するクオリティータイムです。


待ち望み、祈りをもって、心に深く深く繰り返し、神さまのみことばを考えます。
口ずさみ、思い巡らします。良い土地はよく耕され、柔軟なのです。
時間がかかっても、なかなか良いことが起きないと思っても、待ち望みます。


神さまとともにある、祝福の時間を一緒に楽しみましょう!
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5月15日 「生き生き」の秘訣

おはようございます。
どんな時にも歩いていれば良い景色を見るようになります。


☆今日の御言葉 ヘブライ人への手紙12章13節
『自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。不自由な足が道を外すことなく、むしろ癒されるためです。』


先日、どうしても外出する必要があり、その途中でカフェに立ち寄りテイクアウトをしました。ホットする時、ちょっとした幸せを感じる時でした。レシートを見るとこのような言葉がありました。「コンブリオ!」この言葉は、「生き生きと」「活力」を意味する言葉のようです。確かに自分の好きなものを飲みながら、「コンブリオ!」になりました。


この時、まだ日常を取り戻すことができないこともあるかもしれません。一緒に「コンブリオ!」神さまに与えられた今日の日を委ねながら、心にみことばによって安らぎを経験したいと思います。好きな飲み物を手に、今日のみことばを思い巡らしてみてください。


生き生きとした人生を歩く人は、神さまにある使命をもっている人です。
今日の聖書には、「まっすぐな道を造りなさい」とあります。


神さまは、道を造ることの大切な使命を、この人生に残してくださっています。

わたしたちはそれぞれが人生の道を歩いてきました。
その道を見つめながら、神さまの守り、助けはどのような時に経験したでしょうか。


一つひとつに感謝しながら、神さまにある今までを思い起こす日です。
人生の道を神さまの視点で見つめ、守られていることを思い、
神さまの恵みを証しすることは、後の世代にも伝えられる大きな励ましです。


人生の道を神さまの恵みとして証しするための黙想
(道を造る時の工程と合わせて考えてみました)


1、恵みの材料をたくさん混ぜ合わせ、思い巡らします。
わたしたちはたくさんのみことばの体験をしてきたことがあるかもしれません。その中には、神さまの愛を思い起こす「みことば」、自分を正しい道へ導いてくれる「みことば」、苦しみの時に聞いた「みことば」、とても難解な箇所、いまでも信じることができない「みことば」、だれかから聞いた命の「みことば」、自分の人生の中でいつも励みとしている「みことば」、もし、思い起こされることがあれば、時間のある時に書き留めてください。それは、わたしの人生の道となり、その道は、多くの人励ますと力となるのです。


2、火のような試練の中でも歩き続ける
 道をつくるときには、混ぜ合わされたアスファルトは、熱せられます。そして、伸ばされ、道に流されます。試練の中でこそ、苦しみの中でこそ、みことばわたしたちの内側で輝くのです。わたしたちのみことばの体験は、特別な意味があります。このみことばの価値は、現実の苦しみの中で、心に豊かに満ち溢れ、試練を通らないと、真実なみことばに出会えない時があるのです。神さまの声は、試練の火の中で守る力となり、困難の嵐の中で平安を与えてくださるのです。


3、みことばの上を歩く
感情の上を歩く道ではなく、みことばの上を歩きます。わたしたちの道には、平安の上の置かれています。もちろん、見る風景は簡単に乗り越えられる課題ばかりではありません。すべて神さまの大きな手の中にあります。「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」というみことばの上を歩きましょう。「神さまの愛から離すものはこの世になにもない」というみことばの上を歩きましょう。「わたしの計画は災いの計画ではなく、平安と希望を与える計画である」というみことばの上を歩きます。その道は、永遠に続き、共にいてくださるイエスさまに支えられています。


4、だれもが通れる道へ
 わたしたちのそれぞれの場所は、神さまが特別に置かれているところです。意味があります。それは、わたしたちに悩みを与えたり、苦しめるためではありません。神さまの業を見るのです。大いなる働きです。自分の思いを超えて、自分の考えを超えて、やがて「神さまは守ってくださった!」と祈る日がくるでしょう。賛美する時が来るでしょう。それは、多くの人の希望と慰めとなり、その道にひとりひとりを招くためなのです。私たちの苦しみはやがて、神さまの恵みを証するものとされるでしょう。


今日の道は、言葉では言い尽くせない希望につながっています。
 

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5月14日 あなたの美しさと強さ

おはようございます。
未来は今日から変えられるかもしれません。


☆今日の御言葉 ホセア書14章6節
『私はイスラエルにとって露のようになる。彼は百合のように花を咲かせ、レバノン杉のようにその根を下ろす。』


ある神学校の先生がクラスの中で生徒たちにこのような課題を出しました。「あなたの今の状況を表す木を描いてください」学生たちは、自分の姿を描いた樹木のイメージをクラスで紹介しました。


落雷のような出来事によって切断された大きな枝。木を取り囲む果樹園や近くにある小川の流れ。オアシスにそそり立つ孤独な一本の木。伸びた枝にいくつかの実がなっている絵はよく描かれ、時折、鳥の巣や子ども用のブランコなどもそこに描かれます。自分を盆栽の木だと表現する人もいたようです。


今日の私たちはどのような自分の木のイメージを描くでしょうか。
お一人ひとりのイメージをお聞きしたら、それぞれ面白かもしれませんね^ - ^


聖書の中には、木のイメージで神さまと私たちの関係を現している箇所がたくさんあります。創世記の1章には、天地創造がありますが、木々や花々、神さまの豊かなみことばによって創造されました。詩篇1編には「その人は流れのほとりに植えられた木」ヨハネによる福音書15章5節「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られています。


信仰というのは、神さまと私たちとのつながりです。そのつながりには、樹木が豊かに成長するイメージと、わたしたちが神さまを信じて今日を生きている姿のようです。


今、自分の本当の姿を見ます。先ほどの木のイメージをなかなか描けなくても大丈夫です。

今日のみことばには、見事に今のわたしたちの今の姿を描いてくれているのです。


自分の感情でみる人生の風景が本当ではなくて、神さまの眼差しでみる風景が真実のわたしの姿なのです。


朝露のように輝き、潤いが溢れ、わたしたちは、もう渇いた大地に植えられた者ではありません。どんなところにあっても、どのような心を抱えていても、みことばは私たちを癒してくれます。優しとと慰め、心の渇きを満たしてくださる神さまのそばにいます。


百合のように花を咲かせています。
エスさまが最高に着飾ってくださっています。
人と違うことも恵みです。置かれている場所がそれぞれ違うことにも意味があります。
誰かと競い、自分以外の何かを求める必要はないのです。
今のあなたが最高に美しいのです。


レバノンの杉は、強さの象徴でした。どうして、その木は強いのでしょうか。
レバノン杉は、根っこがしっかりしていることで有名です。
根っこは見えないものでしょう。
苦しみの中で、闇の中で、涙の祈りの数々がわたしたちの根底を育てたのです。


今日はゆっくりとみことばの恵みの中に歩みます。
この何とも豊かなで潤いに満ちた木のイメージで共に歩みましょう。


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5月13日 プライドを交換する

おはようございます。
歌いつつ歩む、今日の日はきっといいことがあります。


☆今日の御言葉 コリントの信徒への手紙第二 10章17節
『誇るものは、主を誇れ。』


今朝、ランニングをしている時に、朝日がきれいに輝いていました。優しくこの地を照らすその光は、いくつもの線のように見えて、十字架から輝く光のようでした。神さまの愛を浴びるようにして、自分自身の今日を思いました。


神さまに出会うまでは、そして今も自分の誇りというものをずっと求めていました。弱さを克服すると誇りはなお一層輝き、私の人生を豊かに照らしていました。何年も何十年も、この誇りはいつもわたしの人生の近くに置かれていました。しかし、この誇りはずっと輝き続けるわけではないようです。少しずつ、私を照す光は弱まってしまうことを感じるとき、期待どおりに、思うように、自分の誇りを立たせることに限界を感じることがあります。


部屋の明かりが弱くなっていると感じた時、ずっとその暗闇の部屋を憂いている必要はありません。なぜ暗くなってしまったのだろうと、原因を追求することも本来は無意味なことでしょう。一番、良い方法があります。そしてすぐに問題の解決に動くことができます。部屋のランプが切れているときには、新しいランプに取り替えます。今は、暗闇が深刻な状況で私たちの生活を覆ってしまっているかもしれません。嘆くこと、嫌になってしまうことばかりかもしれません。


聖書は、わたしたちの「誇り」を大切にしていてくださっています。それは、尊厳ともプライドとも呼ばれるものでしょう。その捨てること、無意味なものにすることが神さまの御心ではありません。その誇りを大切に取り扱ってくださるのです。私たちの心には、たくさんの誇りが植えられて、その木は成長して、そびえ立っています。知恵、栄誉、賞賛、愛、功績や名誉も見応えがあり、素晴らしいものです。それを神さまへの祈りに変えてみます。


・知恵を、神さまを誇るものに
神さまは知恵を豊かに与えてくださるお方です。神さまはいつでも、どんな時でも、みことばの光を照らして語るべきこと、考えることを教えてくださるのです。


・栄誉を、神さまを誇るものに
打ち倒されて、弱くされればされるほど、神さまの力が強く、私たちの今日を支えてくださることを知るのです。


・賞賛を、神さまを誇るものに
人のうつりゆく言葉が心に留まらず、ゆっくりと確実に命の喜びを実感できる愛のみことばが届けられるのです。


・自分の愛を、神さまを誇るものに
一方的な愛を注ぐ時に人が変わり、見返りを求めず生きる時に、イエスさまの愛と一つになることを体験できます。


・自分の功績を、神さまを誇るものに
天に富を積むことができます。自分のしてきた数々のことがらが終わっても、神さまはいつでも使命に生きる道を与えてくださっています。


・自分の名誉を、神さまを誇るものに
行いによって評価されること以上に、今ただ生かされていることの喜びを味わい、小さなことにも感謝が生まれます。


この心の作業は、ゆっくり長丁場で・・生涯取り組んでいるものです。


一つひとつの太陽の光が線のようにこの地を照らしているように、
神さまを誇りとして生きる人の上に、生涯を祝福する光が今日もまた届けられているのです。
 

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5月12日 神さまの手 Stay Hand

おはようございます。
すでに与えられているものがたくさんあります。


☆今日の御言葉 ヨハネによる福音書10章28節
『私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪うも者はいない。』


今日、神さまの大きな手の中に置かれています。
とても大切で、愛おしく私たちのすべてを見ていてくださる神さまの手です。


聖書の中には、神さまと私たちの関係を結びつけるものとして、「手」という表現を使います。
神さまは、決して冷たく、私たちに善を行うことを要求しているお方ではありません。
関係性をとても大切にしていてくださっているのです。


神さまの手は、わたしたちを祝福します。
心の悩みの大きな原因は、自尊心が傷つけられていることであるかもしれません。
一度傷つけられると、その傷は痛み、自分の存在の意味や尊さを見失ってしまいます。
聖書には、なんと多くの祝福の言葉が満ちているのでしょうか。
天国はきっと、祝福以外のものは存在していないのです。


心の傷を癒すことは時間がかかります。それでも、傷口にお医者さんが適切に治療してくださるように、神さまは大きく手を広げて、「わたしはあなたを祝福する」と呼びかけてくださるのです。これが天国の特効薬です。祝福のみことばの声の中に包まれています。


この世の情報も人の言葉も、ある時はとても大切なものとして心に留めます。しかし、それは風のように流れて消えていく声のようなものです。心に留め、深く心配し、恐れに支配されることはないのです。祝福の大きな手の中にいる私が本当の姿なのです。


神さまの手は、憩いと安らぎの場所です。
私たちの心の恐れを静める方法があります。それは、力を抜くことです。体には無意識のうちに沢山の負荷がかかっています。日常生活は、もう慣れていますから、いろいろなことを自然と何でもすることができます。それでも、ふとした瞬間や1日の終わりには、疲れていたことに気づかされるのです。


心も、一日中気が張っているように過ごしてしまうことがあります。その時は意識していなくてもだいぶ無理をしているのです。神さまの手の中は休むところです。愛されるところです。何か忙しく動き回る必要はないのです。そっと手の中にいることをただ喜びましょう。


実は、神さまからいつでも私たちにみことばが語りかけられ、ささやかれているのです。心の忙しさは神さまの愛のことばを聞き逃してしまいます。今日は神さまの手の中、たくさんの良き恵みで心を充電させましょう。

 

神さまの手は、救いです。
今いる場所は、どこでしょうか。神さまは、私たちを探しています。恐れの中に立っているでしょうか。暗闇の中に隠れているでしょうか。自分を責め続ける罪の泥沼に足をとられて、身動きができないでいるかもしれません。神さまの手は伸ばされます。わたしたちの今いる場所がどのようなところであっても、その手が届かない場所は、この世に存在しないのです。


力強く、私たちを恵みの場所へと引き上げてくださいます。命を捨ててまでも、この世の重くのしかかる十字架という重荷に押しつぶされそうになっていても、私のいるところに、イエスさまは来てくださったのです。


神さまの手は傷ついています。それは、私たちの傷をその身に負うためでした。もう恐れの場所に立つ私たちではありません。死という滅びが私たちの人生の最期ではありません。神さまの手の中に救われて、永遠の命にある素晴らしい風景を見させてくださるのです。


エスさまの渾身のメッセージ「あなたを私の手から奪う者はない」
どれほど愛されている私たちでしょうか。


エスさまの手の中で喜ぶ子のように今日の日をともに歩みましょう。

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5月11日 味付けはお好みで

おはようございます。
神さまを知ると感動することが多くなります。


☆今日の御言葉 詩篇104編15節
『人の心を喜ばせるぶどう酒を生み出し、油で人の顔を輝かせる。パンは人の心を強くする。』


わたしは、毎日納豆を食べています。(きらいな方がいたらごめんなさい・・)先日、とても安くて美味しそうな納豆を買いました。その納豆を食べようと思った時、とてもショックなことが起きたのです。なんと・・その納豆には、味の決めてとなるタレもからしも付いていませんでした。パッケージにはこう書いてあります。「味付けはお好みで・・」


伝え方はとても大切だと思いました。「タレとからしは付いていません」というのと「味付けはお好みで」というのは印象がだいぶ違います。
ちょっと表現を変えるだけで、何か新しく、自由で、ユーモアが生まれることがあるのです。


悩み深い出来事を抱えることがあるでしょうか。神さまは、その悩みの渦の中で練られた私たちを見違えるように美しい輝く姿に変えてくださるのです。誰かと比べて弱さを抱えることがあるでしょうか。自分の弱さを味わう人は誰よりも人の痛みに寄り添うことができ、勝利者として高い頂上にひとりでいるよりも、人々と喜びと痛みを分かち合うことになるのです。弱さ、不足ということでさえ、神様がよりよく味付けされるならば、あなたの可能性は無限に広がり、想像をはるかに超えた神さまにある人生の喜びに繋がるのです。


今日の聖書箇所は、読み方によってとてもユーモアに感じます。


・ぶどう酒はどのように生み出されますか?
ぶどう実は摘み取られます。豊かに実ったぶどう、美しく見えるぶどう、それが人の手で摘まれ、なんと踏まれてしまうのです。どうしてでしょうか。ぶどうの気持ちになって見てください。なぜ、足で踏まれなくてはいけないのでしょうか。涙が出ます。しかし、それはものすごく豊かなぶどう酒になるためでした。人々の喜びにつながることでした。
人の足で踏まれるような惨めな思いをしたことがありますか。なぜ、この人はこんなことをするのかと打ちのめされる経験をしたことがありますか。ぶどう酒は美しいです。ぶどう酒は、味わい深いです。魅力はさらに引き出され、多くの人の心の喜びとなったのです。


・油はどのように抽出されますか?
油分を取り出すために、原料を加熱したり、破砕・圧扁されます。なんとひどい話でしょうか。誰のせいですか。ただ原料はそこに植えられて成長しているだけでしたが、摘み取られて、破砕される必要があるのでしょうか。悲しくなります。もしかしたら、丁寧には扱ってもらえないかもしれません。投げ出され、大雑把に扱われるでしょうか。人間であれば、そんな扱いをされたら耐えられないことでしょう。その油は、ものすごい価値をもたらします。人の顔を輝かせるのです。どんな素敵な人でしょう。苦しみと痛みは、だれかの幸せにつながっているのです。


・パンはどのように作れますか?
ここまでくるとお分かりだと思います。パンは、ものすごく複雑な工程をとおって、出来上がります。捏ねられたと思えば、放置され、叩かれ、潰され、伸ばされて、熱いオーブンに入れられます。わたしは耐えられません。一つの苦しみではありません。一つの試練ではありません。次から次へと、何かの手が加えられていくのです。そして、美味しいパンは焼かれるのです。人の心を強くするのです。わたしたちは、何度打ち叩かれるような思いで試練を乗り越えたでしょうか。その経験は、最高に味わい深く、人の心を強くする人、あなたの輝きです。


朝からずいぶんひどい話をしてしまいました。
わたしたちは、神さまにあって、どこからでも立ち上がることができます。
わたしたちは、練られても、叩かれても、焼かれても、さらに豊かなものにされていきます。


タレもからしもないと嘆くのではなく、味付けはお好みで、と言ってしまいましょう。
神さまに味付けしてもらうのが一番です。自分には足りないものあると気づくことが、
逆に、ものすごく大きな可能性を秘めていることにつながっているのです。


弱さに胸を張り、苦しみに笑顔を輝かせ、倒れてもさらに豊かなものとして立ち上がれるのです。


今日は神さまがどのような味わいを加えてくださるのでしょうか。
幸運をお祈りします。


※5月10日の海老名シオンの丘教会 礼拝動画です。
 お時間のある時がありましたら。
Youtube :   https://youtu.be/iX8LmvbYTY0

 

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5月10日 魂の自由人

おはようございます。
私たちはとても愛されている神さまの子どもです。


☆今日の御言葉 ガラテヤ3章28節
ユダヤ人もギリシャ人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。』


今朝、大空を羽ばたく鳥の姿を見ていました。
その鳥は、大地から飛び立ち、風に吹かれ、朝の澄んだ空気の中を、今日の必要の糧を求め飛んでいます。その姿に神さまにある自由を思い起こしました。


自由と喜びは、自分という小さな枠組みだけに固執するところから離れ、大空に羽ばたく鳥のような、助け、備え、守り、共生、生かされていることを豊かに見つめることなのでしょうか。


私たちの世界は自由です。大きな神さまの愛に包まれて、今日の日が与えられています。それと同時に、自由を妨げている何かがわたしたちの内には存在しています。硬い岩のように、鎖のように、自由に飛び立つ鳥にはなれないことがあります。イエスさまは、私たちにみことばの風を吹かせてくだるのです。その魂の自由を今日経験しましょう。


・自分という小さな世界は、神さまの愛という豊かな世界に包まれているのです。
・私の世界観を神さまの視点からのものに変えてみます。


この2つを意識するだけで、魂は自由にされていくのです。


ユダヤ人、ギリシャ人は、神さまの民の豊かさの中に置かれました。
私たちは、それぞれの民族性や人間性、育った環境の中に生きてきました。それはとても大切な人生です。その自分の本質と思う部分にこだわって生きています。その部分が決して崩されてはいけないと思っています。アイデンティティと呼ばれるものをさらによく育てることを人生の目標としています。しかし、自分の豊かさを育てるようで、自分の内面のあり方のみに固執してしまうのです。わたしたちの本当の自由は、自分に集中することから離れ、神の民にされたところを拠り所として生きることなのです。自己に固執することから離れ、イエスさまの愛に目を向ける時に、自由になるのです。


★奴隷も神さまの愛する子とされました。
運命は、本質的にはわたしたちを支配することありません。立場や役割は、運命に繋がれて、自由になれない時があると思っています。しかし、実は運命を縛っているのは私たち自身なのです。価値を高めるために、自分自身の役割を承認してもらい、他の人に正しく評価されることによって、その人生が報われることを求めます。しかし、多くの場合に、十分な評価がないのです。心地よい言葉や賞賛を得ることができません。人生は不幸と決めてしまいます。人の評価の上に立たなくていいのです。神さまはどんな小さなことも見ていてくださって、十分に報いてくださる恵みの世界を生きることができるのです。運命はイエスさまと共に歩むことで変えられるのです。


★男も女も、神さまの慈しみの眼差しで見つめられています。
男性も女性も、尊厳を求めています。尊厳は、この世で生きる私たちにとっては最高の価値です。この尊厳は、誇りによって高く築かれていきます。たくさんの誇らしいことを積み上げ、相応しさという壁で覆い、家をりっぱに仕上げていくのです。尊厳の価値を撃ち壊すものがあれば、どんな力をもっても阻止しなければといつも気を抜くことをしません。イエスさまは、何も積み上げることをしませんでした。すべてを捨てて、嘲られてもなお十字架の道に歩みました。この苦しみの人は、最も祝福された人となったのです。最高の祝福は、空の手を天に向けて、栄光の冠をいただくことです。


エスさまにあって違いを乗り越え、愛し合い、祈り合い、今日の日を自由に羽ばたきましょう。

 

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